私は以前から、いわゆる「伊達五十七騎」とはいったい誰なのか疑問を覚えていた。

宇和島伊達五十七騎とは?

簡単に言えば、奥州、仙台伊達政宗の長男、宇和島藩・藩祖伊達秀宗
が、元和元年(1615年)3月18日この宇和島に入部したおり、藩主秀宗とともに
この宇和島の地に足を踏み入れた家臣団であるが、その氏名は、様々に
伝えられ、古文書などでも、諸説が伝わっている。秀宗時代の公的な文書は
ほとんど残っていないらしい。後世の人間が各家々に伝わる文書を書きとめたらしい。

最初この疑問を持って調べようとしたが<誰に聞いても、
正確な答えを教えてくれない。古文書を翻刻した当の本人某に聞いても
言葉を濁し、自分の本を読めというだけである。ところがその本を見て驚いた。
間違いだらけの翻刻である。たとえば「粟野(あわの)」姓が出てくるが
「栗野(くりの)」と書かれている。
由緒書には後に「イ」「ロ」「ハ」の順で分けられたものが出てきた。「ア」の場所
に書かれていれば「アハノ」と読むのが普通だろう。「クリノ」であれば「ク」の箇所に
あるはずだ。それ以来私なりに調べることにした。幸いなことに阿武さんから、別紙
の古文書のもピーを頂いた。これは天保年間に書かれたものだが、参考になった。


一番右端は「栗」と読むか「粟」と読むか


左から二行目は大津と読めるが(黄色のマーカーは私が塗ったもの)
これによれば、片倉采女は切支丹だったらしい。


ここでは大澤になっている。
順番から言えば峯の次なので同一人物と思われる。

それでは、 「藤蔓延年譜」  「南豫史」 「宇和島藩伊達家中由緒書」

で、それぞれ書かれている五十七騎を見てほしい。

そして、それらに「宇和島藩伊達家御歴代事記」
をくわえてエクセルで並べて見ると、このような表が出来た。

ある時「大澤」一族の末裔を名乗る方からメールを頂いた。
伊達五十七騎の中にある姓「大津」ではなく「大澤」だそうである。

総合して見る

ここまでを振り返ると、長い長い道のりであった。

御歴代事記一   御歴代事記ニ

伊達政宗・余談

最近、海音寺潮五郎の武将列伝を読み直して、伊達政宗のところである事に気がついた。
今まで気がつかなかったが、秀吉から、奥州をせがれ(秀宗)にゆずり、政宗は宇和島に行けと言
われた、というくだりである。今までそういう話があった事自体記憶になかった。小田原攻めのさい
遅れて言い訳に苦労した話しだとか、せきれいの眼の話しは有名であるが、領地替えについては
まったく知らなかった。極めて史実を尊重し、歴史の創作は避けている海音寺氏である。なにかそ
れに関する根拠があると思っていたところ、【政宗記 巻之九】に次の記述があることに気がついた。
先に【政宗記 巻之九】 の抜粋を書いて、海音寺氏の武将列伝の記述を書いてみる。 

秀吉公宣ひけるは、「政宗子共兵五郎(秀宗)を、若君秀頼公へ御被官始めに指上奉り、其賞に
今度の難をば御赦免(管理人注・政宗の秀吉にたいする謀反の疑惑)有りて、兵五郎を跡式に政
宗をば何国の島へも
(管理人注・これを海音寺氏は四国・宇和島と読んだか)遣はし給はん、然れ
ども、国許に差置ける政宗親類ども、並家老の者ども相上せ、今より兵五郎を主と仰いで、政宗方
へ不通せんと誓紙をさせ給ふべし、其迄では聚楽の屋敷へ引込、国の者ども上せよ」と上意の由
なり。彼兵五郎は今予州の宇和島の城主、伊達遠江守秀宗の事なり。彼秀宗は次の腹(妾腹)に
て御座せども、其頃子供とては是迄なれば、右の数条に候事。其後家督忠宗は出で給ふ。されば
四人の上使、右の御諚を悦ぎ給ひ、施薬院の家へも入給がで、表の庭より呼掛に「先殿中は済た
る分なり、心安あれ」とて其より内へ入給ひ、上意の旨を仰せ渡さる。是に依りて聚楽の屋敷へ移
し給ひ、閉門あり御座す。附参らせし家来まで、安堵の思をなす処に、屋敷近所の町人どもの口な
りと、「政宗家中どもを屋敷へ引込、京中を焼払ひ斬死に死なんとある」由云唱ひ、以て外の騒とな
る。政宗是を聞給ひ、右の上使へ其旨問合給へば、「双方の門を開き内のみへけるやふに、惣じて
用なきときは、内衆なりとも出入相止められ、御禁制肝要なり」と御異見なれば、其通にて御座す。
尓る処に、伏見に於て江戸中納言殿(家康)屋敷の前に、政宗事を札に書て立けるを、伏見の御留
主(守)居衆、此札を取て大坂へ上られけるを、秀吉公御被見あれば  後略

海音寺潮五郎、武将列伝 「伊達政宗」より

豊臣秀次が秀吉の勘気にふれて切腹させられた時、かねてから秀次に懇意にしていた者は皆罪せ
られたが、政宗も秀次と懇意にしていた。秀次は秀吉の最も愛した甥だ。あとつぎに立てて関白
に立てたのだ。利を見るに機敏な政宗が親しく出入りしないはずがない。
 ところが、秀吉の秀次にたいする愛情の冷却は急激で、しかもその憎悪の昂進は狂的であった。
常理(ママ)を以て律することのできないこの変化には、さすがの政宗も手の打ちようがなかった。
 百方弁解して、やっと死はまぬかれたが、
「家をせがれの兵五郎(後の秀宗・宇和島伊達氏の祖)にゆずれ。伊予に転封を命ずる」と言い
渡された。
 政宗は、追って御返答するといって一先ず使者をかえしたが、途方にくれ、家臣二人を家康の
許につかわし、しかじかの上意を蒙りました、伊達家の浮沈この時にきわまりました、お智慧を
拝借するよりほかはありません、と頼んだ。
 家康は使者らの口上を聞いたまま返事はせず、茶や食膳をあたえた。二人は途方にくれ、暇を
告げて、
「主人さぞ待ちかねていることでございましょうから、早く帰って御返事を聞かせたく存じます。
何とぞお智慧を拝借させていただきとうございます」
 と言うと、家康声荒々しく、
「汝(わい)らが主の政宗という男は、見かけは強(きつ)そうであるが、腰抜けじゃわ。腰が
弱いゆえに、さようなうろたえをするのじゃ。おめおめと四国に行って魚の餌(えば)になるが
ましか、ここで死んだがましか、よくよく分別せいといえい!」
と、どなりつけておいて、重ねて秀吉から四国へ行けと催促のあった時の返事のしようなど、
細々と教えてかえした。
 翌日、秀吉はまた伊達家の邸に上使をつかわすとて、昨日申しつけたこと、まだお請けをせぬ
が、返答いかが、早々に伊予へまかり下るようにいえ、と命じた。
 上使はかしこまって、伊達邸へ行ってみると、門前に弓・鉄砲・槍・薙刀などの武器をたずさ
えた者どもがひしと押しならんで、今にも打って出でんずる勢いだ。上使は驚いたがともかくも
来意を通じて、客殿に通った。その客殿にも武士どもがひしめいている。上使はますます肝を冷
やした。
 ややあって、政宗が奥の間から立ち出て来た。無刀でひしめく家臣らを押し分けつつ、上使の
前に座ってあいさつした。
 上使は秀吉の命をのべた。政宗は涙をはらはらとこぼして言った。
「およそ世に上様の御威勢ほどかしこきはござらぬ。また、人間の不幸数ある中で、その上様の
御勘気を蒙るほど大なるはござらぬ。この期になってしみじみと感じることでござる。拙者にお
いては、御不審を蒙りましたこととて、首を刎ねられましても不服を申すことは少しもござらぬ。
ましてや、領地を下し賜っての国替えでござる。しかしながら譜代の家来どもは、いかでか数十
代相伝の領地を離れて知らぬ他国へ流浪することがあろうか、おことわり申して、速やかに腹を
切られよ、われわれは一人たりとも目の玉の黒いかぎりは、本国の領地を人に渡して他国に行く
所存はござらぬと、ひたすら拙者に自害をすすめます。いろいろと道理を語り聞かせますが、一
向に納得いたしません。そのため、ごらんのとおりなる狼藉の有様でござる。かような次第にて、
御勘当の身になりますと、数十代譜代の家来どもさえ、下知を聞かず、勝手なことを申しつのり、
まことに余儀なきことでござる」
 上使は辞去し、秀吉の前に出て、この旨を報じた。
すると、時刻を見計らって秀吉の前に来ていた家康が言う。
 「拙者もその噂は聞いております。政宗一人のことなら、もし彼が上意に背いて旧領を明け渡
さぬにおいては、拙者に仰せつけ下さらば、ただ今すぐ彼の邸へ押し寄せ、ふみつぶすに何の手
間がかかりましょう。しかしながら彼が当地へ召し連れて着ています千にたらぬ家来どもすらそ
う思いつめているとすれば、本国にいる家来どもは国を明け渡して立ち去るとは決してもうしま
すまい。どの家来どもを追い払い給うげき御工夫がございますなら、政宗は拙者に仰せつけいた
だきとうござる。説得いたすなり、討ちはたすなり、その場の仕儀次第にいたしましょう。しか
しながら先祖以来数十代相伝の所領を没収されることでありますから、政宗が家来どもの愁訴す
るところもふびんと存じます。されば、まげて今度は御赦免給わるわけにはまいりますまいか」
「なるほど、せっかくの江戸内府のお取りなしじゃ。今度だけはゆるしてやりましょう」
と、国替えのことは沙汰やみとなり、その後勘当も許されたのである。
後略

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