高野長英 3

宇和島藩との出会い、そして別れ

 ある日幕府同心内田弥太郎の家に宇和島藩家老松根内蔵(図書)が訪ねると、そこで噂に聞いた高野長英らしい学識豊かな人物と出会った。そのことを宗城公に話すと、是非宇和島にかくまってあげたい、と言う話しになり、様々な段取りの末、富沢礼中という宇和島藩の蘭法医とともに宇和島に来た。嘉永元年(1848)3月某日江戸を立ち、宇和島に着いたのは4月2日の早朝であった。高野長英45歳であった。

 早速、藩の命令で裡町と本町の間にある家老桜田佐渡の別邸の中に住まうこととなった。西洋の学問の教授と西洋の本を通訳する仕事を任された。
 そ当時彼の翻訳した本の中で、宇和島に入る前に書いていた「知彼一助」第一巻という本がある。これは日本で一冊だけ伊達家に残っている。彼を知るための助けになる、という意味の、この本の内容は、イギリス、フランスの国勢要覧のようなもので、転々とした逃亡生活のなかで、これだけのものを書くことが出来た、彼のすばらしさを感じる。

 宇和島藩で翻訳した書物に「砲兵必読」というものがある。11冊の砲兵操典である。
 宇和島藩での高野長英は、決して息を潜めた逃亡者ではなかった。「五岳堂」という蘭学の塾を開き、藩で選抜した人たちを教えていた。表向きは出羽の浪人、伊藤瑞皐ということになっていたが、やはりお尋ね者である。塾に通うものもだれまりというわけには行かない。宇和島藩で選抜されたのは、若手藩士、身分を問わず勉学に熱心な人、ということで、斉藤丈蔵、大野昌三郎、谷依中、土居直三郎、他に自分から志願し、住み込みで勉強したのが二宮敬作の子、二宮逸二という人であった。

 彼は、塾生たちに対し学則を作った、(岩波書店「高野長英伝」に写真で掲載)(現物はかっての塾生斉藤丈蔵の子孫斉藤谷雄氏所蔵で存在したが戦後不明)

「五岳堂」学則を要約すると

第一 学問をするものの心構え 第二 西洋の学問には 1 綴り、2 文法 3 文章 4 論理 の段階があり、論理が最高の段階である。 第三 以下勉強方法 授業時間 休業日 面会日 その他について書かれている

「五岳堂」学則を読む

 高野長英が宇和島に来てわずか一月足らずでこのような学則を作り、しかも洋学が、蘭法医、しかも外科学だけしか認められていなかった時代に、四国の片田舎でこのような学塾が開かれていたこと自体が稀少なものではなかったのではないだろうか。当時では、このような塾は大坂の緒方洪庵の「適塾」と宇和島の「五岳堂」のみであった。(適塾の塾生には村田亮庵=後の大村益次郎、大洲出身で五稜郭の設計者武田斐三、時代がずれるが、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉がいる)

 高野長英は緒方洪庵に比べれば、一方は恵まれた生活のなかで公然と全国の人材を集めることが出来たのに対し、いわば日陰の身で限られた塾生しか教えることできなかった。

 やがて、長英の存在が幕府探索方の知るところとなったようで、彼は一年足らずで宇和島を去ることになった。生まれた時代が早すぎた英才は、やがて江戸で非業の終末を迎えることとなる。しかしほんのわずかな時期であっても、長英がこの地に蒔いた種は、派手な花を咲かすことはなかったものの、地味ではあれ着実に実を結んでいた。

 長英のその後の足取りについては、吉村昭著-「長英逃亡」を読む事をすすめる。

 長英の弟子である大野昌三郎はその後蘭塾を開き、長英の意志を引き継ぐ形で宇和島藩の学問は進んだ。昌三郎の教えた土佐宿毛出身の小野義実は長英の孫弟子にあたり、明治になると、内務省土木司(現在の国土交通大臣に当たる)になり、大阪湾改修、退官後は現在の東北線、東京―青森間の開通に努力し(当時は民営)、岩手県の小岩井農場の開発にも貢献した。

 また、最近なくなられた文学博士の斉藤ショウ(日偏に向という字)氏は斉藤丈蔵の次男、斉藤竜氏の息子さんです。

 宇和島藩出身で幕末前後に活躍したと思われる人物の多くは、薩摩、長州に比べ、維新達成後、明治政府の要職に付くことは少なかったと思われる。これが宇和島人の生き方なのであろうか。時流に乗り遅れたのかも知れないし、宇和島藩士の奥ゆかしさなのかも知れない。


宇和島市にある、高野長英住居跡の石碑
(場所は穂積橋の近く・碑文は同郷の後藤新平による)

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