高野長英 2

獄中の長英・逃亡

 鳥居耀蔵の手中に落ちた長英は江戸の小伝馬町の牢獄で暮らすこととなった。
36歳から42歳までの足かけ6年間の期間、長英は前途の望みもないまま、牢獄の人となったが、持ち前の男気と優れた学識で、何時のまにか牢内でみんなから慕われるようになっていた。
 例えば獄中に新入りが来ると、その人に奉行の取り調べの時には、こういう風に言えば罪が軽くなると教えたり、病人が出ると持ち前の知識で病人を治療してやる。ということで、「高野先生」「高野先生」と慕われ、ついには牢名主になった。

 その間外にいる仲間も、様々な手だてを尽くし、長英の釈放運動を行ったが、大目付、鳥居耀蔵が町奉行に栄転するにあたり、その運動はますます困難となった。

 そんなある日近くで火事が発生する。(長英を脱獄させるための放火だという説もあるが、これについてはここではふれない)そのおり、囚人を解き放ち、3日後に帰って来れば刑を一等免ずるということ、帰らなければ重罪にする、ということになる。長英は放たれたあと、戻るかどうか考えたあげく、無実の罪がここで許されるはずは無いという、前途を判断し、潜伏生活に入る。長英42歳の時であった。

 長英が学問に一途であったことを証明するには、5年間の潜伏生活の間にも様々な著述、翻訳をして、日本国家の役に立てようと、常に勉強に明け暮れていたことである。
 友達、知人の世話になり、潜伏生活を送りながらも、それほどまでに学問を追究し、世の役にたてようとした、彼の崇高な精神の前には、現在の学者と呼ばれる連中は爪の垢を煎じて飲んでもも役に立たないだろう。

 潜伏中に彼が表した有名な本に「三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)」という書物がある。歩兵、砲兵、騎兵の操典であるが、当時転々と筆写され。一部50両という高価格で売買されたほど貴重な本であった。10両盗めば死罪といわれた当時の50両である。勝海舟の回顧録では、若いときにはこの本が欲しくてならなかったが、とても高価なため買うことが出来ず、残念であったと述べている。

 このように逃亡中の身ながらも、学問に携わることが出来たのは、彼の人柄と、無実の罪を被せられた、ということが多くの知人、友人に理解され、周りも自らの危険を顧みず彼をかくまい続けたためであった。

【長英が破獄しておよそ二ヶ月後、蘭学を目の敵にしていた、鳥居耀蔵は様々な政治的陰謀が暴かれ失脚し、その要職を奪われる事になる。かねてより先進的な考えの江川太郎左衛門は長英庇護に回るが、あくまでも個人的な計らいであった。鳥居に代り南町奉行になった、遠山左衛門尉景元(金四郎)は、かねて鳥居と対立していたとはいえ、御法を破った長英捕縛の方針は変わりはなかった。なお、鳥居は丸亀藩預かりの身となり、明治2年まで幽閉され、赦免された後明治7年10月3日この世を去った。】

続き=宇和島藩との出会い

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