高野長英 1

高野長英 文化元年(1804)陸奥の国(現・岩手県)水沢に生まれる。水沢は、海軍大将・斉藤真、後藤新平(満鉄初代総裁)の生まれたところ。医者の息子として生まれた長英は勉学の志強く、17歳から21歳まで江戸で勉強に励む。このころより非常に義侠心の強い人間で、それが後日牢から逃亡したおりに、彼を様々な形で援助する人が出来たことの原因でもあるようだ。

 22歳から25歳まで、長崎に行き、シーボルトの門下生として勉学に励み、シーボルトから「ドクター」の称号を許される。
 当時同門に卯之町出身で後にシーボルトの娘を預かる二宮敬作、宇和島藩に種痘を奨めた伊東玄朴などがいた。
 シーボルト事件には、幸い連座する事もなく、江戸に戻り27歳から36歳まで蘭学医者として活躍。このまま医者だけでいれば悲劇に逢うことも無かったが、長英は学者として外国事情に精通していたために、当時の江戸幕府の対外政策を憂いていた。

 この当時、江戸の医者には二つのグループがあった。一つは単に医療に専念するだけのグループ。もう一つは西洋医学に精通し、外国の科学の優れた事を認め、このまま鎖国をすれば、日本は落後する。なんとか世界の優れた技術との交流を持ちたいと願っているグループ。長英は後者に属していた。このために渡辺崋山小関三英などと「尚歯会」という組織を作り、海外事情、外国文明の研究会を作った。「尚歯会」と言う名前は、年寄りが集まって健康を語る会、ということで幕府の眼を避けていた。メンバーには幕府の役人の中でも、外国事情に関心の高い人も居たという。

 その中で、イギリスのモリソン号が日本の漂流難民を七名のせて届けてくる、と言う話が長崎のオランダ領事館を通して幕府に話があった、と言うことを知った。当時は鎖国時代、異国船打払い令が出ていたので、せっかく外国の船が日本人を連れてきてくれるのだから、門戸を開き外国の話を聞いたら良いのに、という考えで、自分の主張とせず、夢の中で年寄り達がそう言う話をしていた、と言うことで書いたのが 「夢物語」 である。
 これが世に出回り、宇和島藩主 伊達宗城 の目に留まった。

 そういう事がある一方で、幕府大目付 鳥居耀蔵は普段から、蘭学者達を苦々しく思っていた。鳥居は漢学の権威 林羅山の系統を引く林家の出身で、おりあらば、蘭学者達をつぶそうと考え続けていた。
 たまたま、江戸湾を測量すると言う話が持ち上がり、蘭学者の一派と漢学の派とで測量の競争のようなことをさせところ、蘭学者のほうが遙かに正確な結果を出した。
 当時の蘭学者の測量隊の責任者が、韮山代官、江川太郎左衛門で、以来面目をつぶされた鳥居は、ことさら蘭学を憎悪するようになったと言われる。

 鳥居は、蘭学者達が小笠原に移住を企てている、とでっち上げ、渡辺崋山、高野長英らを捕えた。その件では無罪となったものの、家宅捜索で出てきた「夢物語」の原稿のため、渡辺崋山は長の蟄居、高野長英は無期懲役となる。「夢物語」自体何も過激な話ではなく、外国と仲良くしよう、と言うような事であったが、鳥居にとってみればまさに絶好の餌食を捕まえた、と言う感じであったろう。

(吉村昭・著 「長英逃亡」が面白い。)

続く

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