宇和島運輸と最後のフェリー

 平成12年(2000)10月31日17時10分、宇和島から別府に向かうフェリー「あかつき2」
はいつものように波穏やかな宇和島港樺崎の岸壁を離れた。しかしこの日の汽笛はこころな
しか、もの悲しく黄昏時の宇和島湾内に何時までも鳴り響いていた。

 その日は午前中は時折日差しも見えていたが午後から空は曇り、何時しか雨になっていた。
 時折り激しく降る雨の中、見送る関係者の中には涙ぐみながら、この船を見送る人もいた。
赤松・覗き岩と九島の間の水路を通過して、暗い波間に薄れゆく船の灯りが小さく消えゆくま
で帽子を振り続けていた。頬を伝う雨を拭おうともせず………。
 かつては宇和島と海を隔てた、向かい側の別府を中心とした九州航路は言うまでもなく、佐
田岬を回り神戸、大阪まで直接定期便を出し、海の玄関口としてにぎわった宇和島・樺崎港の
最後の長距離フェリー航路は幕を閉じた。明治以降の宇和島を語るには、交通の要として活
躍した宇和島運輸の話を抜きにしてはならないだろう。
    

                            (参考・津村寿夫著「宇和島の明治・大正史」)

初期の海運状況

 宇和島運輸会社が創立されたのは明治17年12月1日で、宇和島町制実施よりも5年も前
になる。当時の海路の便は勿論不自由であった。大阪商船会社史によれば

「明治4年頃、岩崎弥太郎が大阪に三菱商会を興し、汽船白水丸を以って豊後及び伊予の南
予地方に廻航した」

とあるが、これも一時的なもので結局は間もなく廃航になったらしい。その頃宇和島〜阪神間
と九州方面の海上交通運輸に顔を利かせていたのは、いわゆる「千石船」であった。その覇
権を握っていたのは川之石の兵頭伝兵衛の経営する「ほてい屋」をはじめ、その他二、三の
海運業者だけであった。

 宇和島には気概があるものがいなく彼等に独占された形であった。唯、横新町に伏見屋、松
井、瀬戸熊など、彼等の取扱店があっただけである。西宇和人は機を見るに敏で、然も積極
的であったので、廃藩置県後、自由経済となった機会を逃さず、船問屋の看板を掲げ、海漕
業を始めた。こうして彼等は地元を基地として宇和島に廻航しては貨客を集め、目的地に向
かっていた。不定期だから何時来航するか判らない。宇和島町民はそれを待ちかねて乗船し
たり、貨物を積んでいた。来る時間も不明なら、到着する時間も不明である。宇和島〜阪神間
の航海は普通で往復三十日、悪天候などの場合には四、五十日もかかっていた。地方民の不
便はこの上もなかった。

大阪商船乗り出す
 ところが宇和島地方に朗報が伝わってきた。それは明治15年5月1日に創立した大阪商船
会社が、北宇和郡出身で関西財界に重きをなしている今西林三郎の肝いりで15年9月1日か
ら、新八幡丸、新和歌浦丸、第四大分丸の三艘をもって宇和島〜大阪間に就航が決定したこ
とである。
 これは交通に恵まれない地方民にとっては願ってもない話であった。皆喜んで歓呼の声をあ
げたのは当然の事である。毎月2,5,8の日は大阪発、2,6,9の日は宇和島発、相互に出
航することになった。しかし実際に運航が始まると宇和島町民の喜びと期待は、たちどころに
失望と怒りに変わってきた。
 運賃はべらぼうに高く、貨客の取扱は横暴で不親切、船員はまるで役人のように振る舞い、
利用者からは不満と反感の声が上がってきた。

宇和島運輸創立にむけて

 明治17年10月末のことである。宇和島実業界の七人組、恵美須町の呉服商松広源太郎、
同赤松伊平、本町の呉服商竹葉覚治、竪新町の呉服商末広又治郎、船大工町の雑貨商槇
本和三郎、恵美須町の砂糖卸問屋末広助六、佐伯町の金融業西本精三郎達は向新町の料
亭福島屋に会合して

「この際地元で船会社を創立して、自らの利益を守るのが急務である」

との申し合わせをし、資本金1万円で旗揚げをする事を決定した。この七人の他に石崎忠八、
石崎庄吉、薬師神敬三、多田善造、堀部彦次郎等がこの計画に賛成し、極力応援する事に
なった。堀部彦次郎は依頼を受けて創立趣意書を書き上げた。要旨は次の通りである。

 「宇和島の商工業は藩政時代そのままで進歩の跡がない。これでは到底町の発展は見込
めない。しかも商家は今や物価変動で苦境に立っている。この苦境を打破して新生面を開く
のが先決問題であるが、それには貨物運搬の不自由を解消して商道を自由化する事を忘れ
てはならない。運搬の開拓が一日早ければ商道は一日の長があり、一日遅れれば一日の衰
徴を来す。商道の伸縮は実に運搬の便、不便の如何にかかわると云うも決して過言ではない。
然るにこの頃航海する汽船の如き運賃不当にして乗客、荷主は共に不満を口にせざる者なし
と云う調子である。けれども他に便を求むる船舶がないので、やむを得ず黙々としてこれに我
慢している状態である。このままでは地方の商工業は益々不利と困難が積もるばかりとなる。
我々は此処に慨する処あり、自ら地元に汽船を備え、一は以て貨物運搬の便を計り、二は以
て乗客航海の自由を確保し、地方繁栄の基礎を築きたいと思う。而して堅忍の士気を奮い、よ
く利害得失を熟考し、確固不抜の一社を創立したいと思う。幸いに地方の諸君、我々と同感で
あるならばご協力を賜りたいものである」

 こうして株式の公募に着手した。七人組の最初の申し合わせは資本金一万円であったが、そ
の後二万円に変更。一株の株式五十円、四百株の予定となった。しかし当時の地方民には大
きな危惧があり、この計画はなかなか進まなかった。趣旨には異論はないが、第一に「資本金
百万円の大会社、大阪商船と太刀打ちが出来るのか、まさに蟷螂の斧に等しいのではないか」
第二に「会社が創立されても経営には素人ばかりである。果たしてうまく採算があうのだろうか」
という不安がつきまとっていた。一株の五十円は当時の貨幣価値では高額で、白米にして二十
五俵分に相当する。簡単に応募者があるわけがない。これには発起人達も悩まされた。結果と
して応募者は六十六人、株式数百十六株、資本金九千八百円にすぎない。不足額は予定より
一万二百円も少ないという有様である。応募した株主の中では石崎忠八の十六株、堀部徳之
丞の十五株、松広源太郎、槇本源蔵の十三株、西本精三郎、山田富業の十株、他の株主は二、
三株あれば多いほうでこれも若干名で、ほとんど多くが一株であった。後年社長になる堀部彦次
郎もこの時は一株の株主であった。

 こういう状態では二万円まで待つには前途遼遠である。そこでやむなく資本金九千八百円で事
業を始めることになった。創立総会を開いた結果、社名を「宇和島運輸株式会社」と決定し、取
締役に松広源太郎を選任した。監査役は誰一人いない。松広は事実上は社長であったが、その
頃は銀行のように頭取と称した。社員は山田富業が支配人となり、更に若干名がいるだけであっ
た。松広頭取の月給は十二円、他に相談役はあったが、何れも無報酬であった。

宇和島運輸の創立

 創立総会が終わり、この年12月1日付けで愛媛県令関真平に設立の届け出をし会社は正式
に成立した。最初本社は竪新町の末広又治郎方に看板を掲げて営業開始までの事務をとった
が、後日本町に移り、明治二十年代に入って丸之内角矢倉の跡へ腰を落ち着けた。同所は藩
政時代には海上の要路として藩が取締の任にあたった場所で、現在の国道56号線沿いの消
防署辺りになる。前は内港で潮が出入りする。会社は借りはしたものの、昔そのままの古めか
しい建物で、採光、通風が悪いので一部改装したが、その時所有者の伊達家に無断で施工し
たというので大変なおとがめをうけ、詫び証文まで取られたという逸話もある。頭取や時々来る
相談役などは羽織、袴は付けないが常に和服姿で依然として商人風、社員は前垂掛けで丁稚
風であった。

 創立した翌明治18年の春になり、たまたま神戸の河野造船所から木造二百トン級の新造船
が売りに出された。相場は一万円である。出資金に不足する分は関係者が融通し、とにかく購
入する事にした。明治18年5月12日に宇和島樺崎に廻航。第一宇和島丸と命名し、18日に
は晴れの処女航海に出た。宇和島で初の船が出航したのである。会社の営業報告書によると
「大阪商船の何れの船と比較しても劣らぬ優秀なものである」と書かれている。しかし港には小
さな待合所があるだけで、他には何一つ施設はなかった。桟橋さえない。船と陸との連絡は和
船を漕いで使用した。船の航路が大変なもので、宇和島を出ると、吉田、八幡浜、川之石を経
て、対岸の九州に渡り、大分、別府、日出、守江を廻ってまた四国に引き返し、喜多郡の長浜、
三津浜、今治、多度津、高松を経由して神戸大阪に向かうのである。航海日誌によれば一往復
平均八日を要している。宇和島からの出航は一ヶ月に多くて四回の計算になる。運賃の記録は
残っていないが、古老の話では「宇和島〜大阪間は三等で食事付き一円二十銭だった」そうで
ある。他の港からの料金は不明だが、これを基準に考えてほしい。この料金が安いのか高いの
かは判らないが、宇和島運輸の営業成績はすこぶる良好で第一期から早くも一割四分の高配
当が出た。

大阪商船との競争
 こうなると大阪商船としては宇和島運輸の存在が目障りになってくる。そうして大阪商船と宇和
島運輸の大競争が始まった。大阪商船側は運賃の値下げは云うまでもなく、各港の発着時間を
宇和島運輸に合わせ貨客の争奪戦を挑んできた。甚だしい事として航海中に故意に船を接近さ
せ、速力を競うことまで始めてきた。これは危険この上もない。宇和島運輸も大阪商船への対策
を協議したが、浦和盛三郎などの主戦論者もあり、この挑戦に敢然と応じることになった。

 最初は運賃の値下げで対抗する程度であったが、ついには常識を逸するようなことに迄なって
しまった。乗客にはサービスとして値下げの他全員に手拭いを配る。とうとう船中で寝酒まで振る
舞うことにもなった。一、二等客には燗瓶二本迄、三等には一本の割合で膳に添えて出す。ある
時など、別府から大阪までの婦人の団体の内の一人が三味線を持っていて、飲めや唄えのにぎ
やかな場面になったそうである。明治18年11月になると大阪商船の暴慢は益々こうじて来る。
宇和島運輸としては他の競争はともかくとして、速力の競い合いだけは危険を伴うので避けたかっ
た。その為に関県令に相手方の説得を願い出たが、「俺にはそんな権限はない。長いものには
巻かれる時代だ。足下の明るいうちに合併せよ」と云うだけで相手にしてくれない。明治20年に
なったが相変わらず競争は続いている。しかも不思議なことに営業成績は良く、第一期から続い
て一割四分の配当が出ている。その理由について営業報告では

「競争甚だしきと雖も、大阪以西以南の諸君は特に本社を愛する事、父兄が小児を育てるが如き
景況、本社にとってはまさに幸福と云わざるを得ず」

と延べ、得意満面である。当時は地方住民にとり「弱い者を助ける」と云う侠気的な気質があった
ので、乗客や貨物は宇和島丸の来航を待って利用する状況であった。それが大きな原因で好成
績を上げる結果となった。

宇和島運輸の安定化
 大阪商船との熾烈な競争を展開する間、宇和島運輸は明治19年には資本金を一万六千五十
円に、20年には一躍六万一千六百五十円に増資した。創立当時には二万円の予定金額さえ集
まらなかったが、わずか数年でこのように飛躍的に成長したのは、地域における宇和島運輸果た
す役割が大きく認められたことによる。この増資によって「第二宇和島丸」、「第三宇和島丸」を新
造して、同じく阪神間の航路に就いた。大阪商船としては当初は、たかが田舎の小会社と小馬鹿
にしていた事が大きく目算をはずしてしまった。

 折柄関西海運界には大きな旋風が巻き起こり、混乱を来す時期であった。中四国に群立してい
る海運業者は一斉に競争を始めた。極端な例では一切船賃無料という会社まで現れたそうであ
る。とりわけこの影響を受けたのは、大阪商船であった。しかし無茶な競争は何時までも続く訳で
はない。いずれも疲弊し始め、各社とも妥協が必要となってきた。やがて関西の海は再び穏やか
になり、宇和島運輸と大阪商船の競争も沈静化してきた。

 宇和島運輸の頭取は初代松広源太郎、二代浦和盛三郎、三代石崎忠八、四代堀部彦次郎、五
代玉井安蔵、六代末広助六と順番に替わっていた。その理由として各々本来の家業があるために
頭取は持ち回りという約束があった。堀部彦次郎が二度目の頭取となり、社長制に改めたのは明
治31年で、爾来彼はそれを生涯の仕事として経営に努め、宇和島地方における運輸王国を築き
あげた。その片腕に堀部俊介、長山芳介、傘下の社員には村重嘉三郎(後・宇和島自動社社長)
朝倉誉太郎などがあった。何れも後に宇和島実業界の重鎮となられた方々である。

そうして今……

 一時期は海の玄関として栄えた宇和島港も、昭和後期に宇和島運輸は本社を八幡浜に移し、陸
上交通が主流を占めるに至って次第に寂れてきた。そうして遂に最後のフェリー航路も廃止になっ
た。
 私が子供の頃には「うわじま丸」「あかつき丸」が別府航路に就いていた。その頃にはまだフェリー
などはなく、ただの貨客船であった。たぶん「あかつき丸」のほうが大きかったようである。この二艘
は船尾の形状で識別が出来た。船尾が垂直なのが「あかつき丸」お皿のように出っ張っていたのが
「うわじま丸」だったように思う。一日朝晩の二便があったようで、夜の9時頃宇和島を出る船は、八
幡浜、三崎に寄り翌朝早く別府に着いた。宇和島から別府を訪れる人はこの夜の便を利用すること
が多かったようである。

 別府航路以外に盛運汽船が佐伯航路に就航したが採算が合わなかったようですぐに廃止になっ
たようだ。宿毛港の工事の為だったであろうか、宿毛〜佐伯航路が一時期宇和島港から発着してい
たがそれもわずかな期間であった。
今は内港から日振島、戸島を結ぶ離島航路と九島を結ぶフェリーなどの沿岸航路が残っているだけ
である。

あかつき丸

 私が赤松遊園地で海水浴をしていた頃、夕方5時近く、別府から帰り宇和島港に入る宇和島運輸
の船の起こす巨大な波で遊ぶのが楽しみであった。
 あの頃は、海も、空も、雲も、風も、人の心も、すべてが美しく輝いているように思えていた。
それから何十年、今は……………。

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