第六宇和島丸・旅順港封鎖作戦に出動

(津村寿夫著・宇和島の明治大正史より)


 明治27〜28年の日清戦争に次いで十年後の明治37年2月10日には露国に対して宣戦の詔勅が煥発、遂に日露戦争となった。

 而してこの戦いは翌38年7月まで続いた。然も激戦の中心地帯は旅順であった。
乃木大将の率いる第三軍が屍山血河の苦戦を重ねたことはあまりにも有名である。
終戦後軍部の発表した処によるとこの日露戦争のため我が愛媛県だけでも戦病死者二千六百八十一人、戦傷のため廃兵となった者五百九人。この数字を見ても如何に戦闘が激烈であったかがしのばれる。

 当時露国の太平洋艦隊は主力を旅順港に集中し、専ら日本海方面の任務についていた。
我が軍は満州作戦を決行する為には極東の制海権確保が先決問題である。そこで東郷平八郎の率いる連合艦隊は先ず旅順港の攻撃に全力を注ぐことになった。
而してその前提として港口を閉塞し湾内の敵艦を袋の鼠とする必要がある。
この重大な使命を帯びた決死隊は2月24日午前3時30分を期し、報国丸外四艘を以て第一回の閉塞を決行した。

 27日は第二回の任務を遂行。彼の広瀬中佐、杉野兵曹長が福井丸で壮烈な戦死を遂げたのはこの時である。
続いて5月3日には第三回を強行。ここにおいて敵巡洋艦以上の出入りは完全に遮断する事に成功した。

 宇和島運輸の第六宇和島丸はこの閉塞作戦に参加したのである。
 これより先、第三、第五、第七宇和島丸の三艘は陸軍に徴用されて既に輸送船となっていたが第六宇和島丸は2月6日呉鎮守府の所属となって活動している。
船は453頓、幹部は船長平岡菊松、機関長脇本某、一等機関士岡秀吉、事務長市原某で、その他乗組員二十余名。

最初淡路島由良要塞に配属されて水雷艇の食糧その他物資の補給にあたっていた。
然るに5月21日になると秘かに特命をうけて他の僚船五艘と共に移動を開始して対馬に集結した。ここで指揮官の原中尉から

 「我々は命によりこれから玄界灘を渡る。敵の浦塩艦隊は実に油断は出来ない。
 現に輸送船などがやられた事がある。諸君は指揮官の命に従い、最新の注意と最大の努力を払い、与えられた任務を全うせよ」
と一場の訓辞を受けた。

そこへ意外も意外、突然宇和島運輸の堀部社長が姿を現したではないか。
乗組員は皆不思議な表情をしている。すると堀部社長は口を開いて

 「君たちが愈々戦地に行くと聞いたものだから激励にやって来た。どうか元気でがんばって役目を果たして呉れ。僕は再び君達の元気な顔を見る日を宇和島で待っている。」
と袂別の辞を述べた。

そして直ちに船中で簡単な宴を開いて壮行を祝した。
堀部社長は 「最期の会見になるかも知れない」 という軍部の厚意により対馬視察に名を藉って馳せつけたわけなのである。

 やがてその日も夜陰となる。原指揮官から一同に出港命令が出る。船隊は勿論灯火を管制し、延々玄界灘を越えて旅順港外十哩の基地に錨をおろした。
船員等には此処が何処であるかは皆目わからない。やがて第六宇和島丸外僚船の乗り組み員は全部船からおろされる。それに代わって決死の海軍兵士が搭乗する。彼等は何れも旅順港内の敵情視察を強行するのである。

船員等は初めて此処へ来た目的が判明した。すると彼等は

 「我々には軍艦のことは判らないが、船ならお手のものである。海軍よりも操縦には巧妙な自信もある。是非搭乗させて任務を手伝うことを許されたい」
と決死隊に参加を志願する。けれども原指揮官は

「わが司令官は非戦闘員の参加は許されないことになっている。我慢してくれ」
と一同を慰撫して認めない。船員等は皆切歯扼腕、偵察に行く決死隊を静かに見守るのみであった。

 偵察は毎夜深更となって決行された。敵の陣地からは無数の探照灯が稲妻のように乱射される。
敵の砲弾はうなりをたてて頭上に炸裂する。決死隊はこれを排して港内奥深く潜入して敵状を視察するのである。まさしく悲烈壮烈の光景であった。任務を果たして基地に引き揚げた船体は多くの場合敵弾を受けて蜂の巣のようになっている。

戦死した兵士の屍が血にまみれて随所に横たわって居たり、また、甲板の隅々には生々しい肉片が飛散している時もある。
 船員等はこれらを整理し、来るべき出動に備えるのがその任務であった。斯くて第六宇和島丸の戦場に在る事二ヶ月、然も最期には砲弾を撃ち込まれて船尾が大破した。

 やがて陸海両軍の緊密な作戦のもとに旅順総攻撃が開始された。敵が難攻不落を誇った陣地だけあって流石に堅固であったが、明治38年一月一日には遂にそれも陥落した。
続いて2月25日には奉天大会戦となったが、間もなくそれも占領。大山司令官以下我が軍の入城となった。

 一方連合艦隊は5月28日、日本海にバルチック艦隊を迎えて撃滅した。ここに至ってさしもの日露戦争も雌雄が決し講話談判が成立した。
宇和島町でも数ヶ所に凱旋祝賀門を建て、夜は町民を挙げての提灯行列が催された。
「日本勝った、日本勝った、ロシヤ負けた、ロシヤが負けたら好いぢゃないか」
という歌声とともに石油缶を破れんばかりに叩き鳴らし、夜空を轟ろかしたものである。
斯くして戦捷の歓喜は天地に沸き返った。

【愛宕公園の始まり】
 翌明治39年には北宇和郡医師会長小高元その他有志が発起して寄付や植木を集め、また宇和津彦神社社司毛山正辰の所有する山を提供させて戦捷記念の榊森神苑を造営した。後に愛宕公園と呼ぶようになった。
春は桜、秋は紅葉の名所として市民の行楽地となった。
それが彼の大東亜戦争の為に姿を消して、現在のものは「二世」である。

※これは津村寿夫氏の書かれた著書からの引用

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