佐賀の乱首謀者・江藤新平、宇和島を通過

津村寿夫著「宇和島の明治大正史」より  ※禁転用
(読みやすくするために、一部改行、誤字訂正していますが、原文のまま)


 佐賀の乱の首魁・江藤新平宇和島に潜入

 明治7年(1874)2月、佐賀の乱に敗れた元参議、司法卿江藤新平は土佐へ逃走中途次、密かに宇和島に潜入して袋町の宿屋に一泊、危うく逮捕を免れて滑床を踏破、宿毛方面に向かった。

 新平は佐賀藩の身分の軽い藩士の家に生まれた。人となり精悍にして俊敏、学問を好んだと云われる。文久2年彼の7卿が落ちて太宰府に至るや、脱藩してこれに従ったがその咎によって永蟄居tなった。然るに慶応3年の王政復古と同時に許され、後に倒幕の東征大総統の監軍となった。

 江戸に入ってからは家賃や土地代の値下げを断行し、更に問屋や仲買人のギルド独占を廃止するなどの政策を以て、民心を新政府に引きつけ、また江戸を近代的産業都市としての建設の構想を描く等、見識に非凡なものがあった。

 明治2年には岩倉具視、大久保利通に用いられ太政官中弁を振出に法制関係の官職を歴任。明治4年4月にはついに司法卿となり、更に参議に抜擢された。偶々西郷隆盛、板垣退助等が朝鮮問題の事を取り上げ、征韓論を唱えるやこれに同調したが、この議が敗れたはめ、参議は追放となり、司法卿も辞して野に下り、故郷の佐賀に帰った。同地には士族の不平不満分子等に依って征韓党、愛国党、中立党の三派が結成され、各々主義主張を争っていたが、新平の帰郷するや従来の感情を1擲し、三派一致団結して彼を擁立、ここにおいて征韓論が地方にもにわかに沸騰するようになった。

 折から佐賀県令はこれを弾圧するために部下に命じて征韓党員を捕らえ糾明を始めた。勿論他の同志にも飛び火は免れない。然るに2月15日払暁に至ってこの弾圧に憤慨し県庁に向かって発砲したものがあった。これが導火線となって各所に紛争続発、ついに新平は四方に檄を飛ばして群衆を動かせ事態は県庁襲撃の騒乱に発展したのである。熊本鎮撫台では急報に接し軍隊を派遣して鎮圧したいと思ったが抵抗甚だしく応戦7日間に及んだ。何れも多数の死傷者を出し、一時は県令の生死不明説さえ伝わるくらいであった。けれどもその結果は新平等が敗れて味方は何れも諸所に四散して終わった。そこで陸海軍省は連盟をもって

 佐賀県下賊徒征伐仰せ出され候に付、右賊徒各方面に遁走致す可くも測り難く候条管内要衝に地は勿論出入り船舶共取締りの向き厳重に相立て出入り人数相改の賊徒を見候ば速やかに捕縛致す可き旨相達し候事。

 と布告を出した。

 この時新平は既に佐賀を脱出して鹿児島に逃れ、西郷隆盛を頼って征韓の決意を促したが最早容られなかった。
 其処でやむなく引き返して宇和島に潜入し、高知県の林有造を訪ね一時隠(匿?)って貰おうと志した。後に高知の先の甲之浦で逮捕されたが、取り調べを受けた際の調書の一節に斯う書いてある。

「窃かに相考へ候に土州には音(文通)の知者も之有り、彼の地に赴き候へば、亦如何様にか東上の策も之れ有るべしと存じ、同国を志し同3日江口村吉共々出立致し、日向国飫肥に行き、知る人小倉処平に頼り、外の浦にて漁船相雇い候うち外四名に者も追々到着。同十時共に乗船、宇和島へ上陸云々」

 これに依ると新平は逃走以来、宇和島到着までに13日を費やしていることになる。然も宇和島到着は3月15日、一行は新平の調書にある通り6人であった。何れも商人に変装している。勿論偽名ばかりである。新平は江戸の商人で加藤太助、その他の者は横山万里、香月経五郎、中島又吉、山中一郎、中島鼎蔵と称している。

 彼らは宇和島に潜入する前に八幡浜立ち寄った事実がある。同地には反政府の意味で同志上甲振洋がいる。今後の措置について相談するのが目的であったが、振洋は「八幡浜は県庁所在地の松山に近い。それだけ危ない。土佐へ行くのが賢明の策だ」と答えたので、やむなく彼らは宇和島を経て土佐行きを志したのである。

 しかし今後6人が揃って行動をとっていると捕吏に感づかれる危険性がある。そこで土佐での再会を約し、宇和島では3組に分かれて一泊する事になった。
 新平は袋町の宿屋島屋へ、他の二組は横新町の吉田屋、裡町の灘屋に分宿した。新平の宿泊した島屋に関しては、本人の調書には

「宇和島藪町。家名覚へず、旅亭に宿し候」

とあるだけで詳かとなっていない。殊に宇和島には藪町などと称する町名はない。当時袋町の裏側、則ち城山の麓や濠一帯には小竹がむやみと繁っていたので、口述かもしくは書く役人が勘違いをして藪町と誤って綴ったのであろうか。毎日新聞の「明治百年」には島屋での一夜に関して次のように書いてある。

 「袋町八面屋(ママ)旅館に商人姿の客が泊まった。主人は二階へ上がる客の後ろ姿を見て首をひねった。商人としては肩が威り過ぎている。それに右手の逞しさ、眼の鋭さ、これはタダ者ではないと睨んだ。食事を運んだ女中の話では

『暗い表情で二階から夜の街の灯を見つめたまま、あまり口も利かない。むっつりと不機嫌な顔をして飯をかき込んだ』

ということであった。佐賀の乱のことは宇和島にも伝わっている。主人は今夜の客は怪しいと秘かに役人に訴へでた」
 小説めいた書きぶりで読む者には面白いが筆者(津村寿夫)がこれを信用するか否かは別問題である。

 しかし新平は翌16日には警察宇和島出張所に召喚されて取り調べを受けているのは事実で、文献でも明らかになっている。新平は徹頭徹尾「自分は東京の商人で加藤太助という者である。生糸を買い付けるため宇和島に来たわけである」と称し、がんとしてこれで押し通した。
 新平の顔を知っている者は誰もいない。流石の役人も、これがお尋ね者と見破ることは出来なかった。

 しかし新平の「加藤太助」はそのとき身分証明と調書に必要な印鑑を所持していなかったので、役人は措置に困り「どうするか、県庁へ伺って上司の指図を受けることにする。返事が来るまで宿屋に泊まって待って居れ。外出は駄目だぞ」と一応釈放される。脛に傷持つ身にとっては宿屋に落ち着いている気持ちの余裕など勿論ない。況して露見寸前の運命ではないか。

 その夜の深更、宿の隙を見て、荷物を放擲したまま脱走し、行方をくらませた。荷物をも顧みぬくらいであるから、余程狼狽していたことが判る。役人等は八方に手を配ってその跡を追ったが全然姿はつかめなかった。

 新平の調書によると「宿屋に荷物を捨て置いて脱走し、昼夜兼行で同20日遂に土州幡多郡下田浦(現中村市下田)に到着」云々とある。その間既に四日四晩の日時が経過して、早くも土佐幡多郡に入っていたのである。然からば新平は如何なる行路を辿ったのであろうか。これに関しては「鬼が城を越した」とか「滑床山を下った」とかその他諸説紛々であるが、筆者は常識的に考えて「滑床山を下った」という見方が正確と思う。

 抑々(そもそも?)新平が土佐へ赴く目的は前記の通り宿毛の林有造を訪ねて「しばらく身を隠(匿?)って貰いたい」というにあった。林有造は嘗(か)って西郷隆盛、板垣退助、江藤新平等だ征韓論を唱えて朝野に議論が沸騰した時、これに共鳴して大いに支持した土佐の駿足である。従って政治的には同志であり、また古い顔なじみでもあった。行けばなんとかしてくれると期待を持ったのは当然のことである。

 その新平が土佐路で最初に到着した処が「幡多郡下田浦」であるのは逮捕されて後彼の供述によって明白である。下田浦は海岸むらで四万十川の下流に位置し、宿毛とは方角が違う。新平は馴れない土地なので下田迄乗り越したものと察せられる。この川に出るには滑床山を下る以外に道はない。

 現に新平の長男江藤熊三郎氏の書いた物の一節にも

 「大宮村(幡多郡)の村はずれの農家に至り少憩して後、土佐への道を尋ねた処、此処から一里程歩けば津之川という部落に出る。その部落には川舟があるから、これに乗って下るのが一番便利であると教え、然も其処迄道案内をして呉れた。そして舟を雇って貰う。新平はその親切さを喜んで幾莫かの謝礼金を包んだ。
その夜は津之川に泊まり翌20日簑笠に身を隠して下田浦に向かった」
とある。筆者もこれを採りたい。換言すれば滑床山を下りたという説を信じたいのである。

 さて下田浦に上陸した新平は道を後へ返し、足を宿毛に運んだ。而して林有造を訪ねたが相憎(生憎?)と不在中で要領が得られず大いに失望した。其処でやむなく舟を雇って海路を高知に進めることにした。24日にはそれが早くも桂浜の漁港に着いた。

 秘かに上陸して高知に至り、久しぶりに腹をしたため、仮の従者になって呉れた一人の男を使って高知県庁の様子を探らせた処
「とても取締が厳重であれでは蟻の逃げる隙もあるまい」
という報告であった。流石の新平も観念の腹を決めたらしい。現に彼の調書の一節にも

「とても身の案ずべき手段も之れ無き形勢に付、尚東京へ登り、自首致すべき心得」

だったと申し立てている。

 そんな心境となっている新平は28日高知から甲之浦へ向かって恟々(兢々?)と潜行を続けた。然るに運悪く一人の警邏に目星をつけられ、抗弁しても逃れることが出来ず、遂に捕縛の身となって終わった。
 一応の取り調べがすむと直ちに佐賀に護送され、間もなく梟首(きょうしゅ)の刑に処せられた。
 時に明治7年4月17日。佐賀の乱から二ヶ月後のことであった。江藤新平40歳。元参議、司法卿の風雪に富んだ生涯であった。


【管理人・注】
「滑床山」とは現在の三本杭のことだと思われる。
「鬼が城」を越えることと「滑床山」を下る、ということは全く別なことではなく「鬼が城」を越えて、「滑床山」を下ることは矛盾したことではなく、むしろ同じ方向に進むことと考えても差し支えはないと思われる。

 また、このあたりで伝説として語られている話がある。

 ある日山中で木こりが、身分の高そうな人物に遭遇し「何か食べものがほしい」と言われるので、気の毒に思い、持っていたにぎりめしを差し出すと、おいしそうに食べ、「これは、自分にとっては不要のものなので、お礼代わりに受け取ってくれ」と荷物を与えたという。その荷物には有価証券のようなものがぎっしり入っていて、木こりは長者になった。その出会った人物こそ、江藤新平ではなかったのではなかったのだろうか。という話が残っている事を何かで読んだ覚えがある。

また、学生時代に読んだ、松本清張の短編集の中に、宇和島から逃亡する江藤新平の話があり、夜の山の中を闇雲に登り、かなり進んだであろうと思っていたら、夜が白々と明けてみると、眼下に前夜逃れたはずの宇和島の街が見え、一同落胆した、と言うような話があった。題は忘れたが、短編集の一作であった。
 
宇和島と、文中にでてくる大宮村、津之川(現在の地図上の表記は津野川)、四万十川、中村下田浦、宿毛の位置関係を印す。

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