第1回普通選挙実施

(津村寿夫氏書物参考)


明治23年(1890)

 普通選挙の要求は、すでに明治初期自由民権論者の国会論に現れている。ところが明治23年(1890)帝国議会の、第1回衆議院選挙においては、直接国税15円以上収めた者46万人に選挙権が与えられたにすぎなかった。

 宇和島においては愛媛県第6区(南北宇和郡)として定員1名で行われた。
 当時の藩閥政治に対抗して、自由党から末広鉄腸、改進党から浦和盛三郎が立候補した。当時、鉄腸はすでに新聞記者として名声を上げていたが、自分の主義主張を政治の面で活かすには、まず議席を得ることと考えていた。ところが選挙人、被選挙人ともに国税15円以上を収めなければその資格がない。鉄腸は土地を所有せず、地租を納めて居なかったので、旧藩主伊達家に頼み込み、形式的に土地を譲り受け、自分名義で地租を納め、かろうじてその資格を得た。

 明治22年から鉄腸の事前運動が始まった、最初は追手通りの寄席小屋で演説会を開催したが、治安維持法のなかった当時は、聴衆には選挙権のない未成年や女性の姿も多く見られ、大衆演芸興業の様で、それ以後、どこの演説会も大入りであったという。

 一方の候補者、浦和盛三郎は、南宇和郡内海村の漁業者であった。天保14年生まれで、鉄腸より6歳年上であった。網代浦開拓者であり、巾着網の創始者。宇和島運輸社長、浦和銀行頭取、宇和島銀行取締役、伊豫物産社長、宇和四郡漁業組合顧問などを勤めた地方実業界の大物であった。政界では、大隈重信、犬養毅などと親交があり、この立候補も大隈に頼まれたものであった。

 当時宇和島では土佐の板垣退助の知遇をうけた、坂義三の影響で自由民権運動が力を伸ばし、山崎惣六などが勢力を持っていた。

 しかし愛媛県の県議会をみれば、かって香川県と愛媛県が統一されていた時期に讃岐の中野武栄が議長をしていた。彼は大隈重信の股肱と頼まれた人物で、県議会を改進党に有利に導くための策を計り、改進党系の南予選出の県会議員は清水新三、堀部彦次郎(北宇和郡)、清水弁十郎(東宇和郡)、都築温(西宇和郡)、岡原丈一(南宇和郡)と、全く自由党を受け付けていなかった。

 その後、香川県は愛媛県と別れたために、議長の色彩は薄れはじめていた。
県会の話はひとまずおき、国政選挙に戻る。

 第1回選挙にはまだ取締法が適用されていなかった。そのために買収、供応がやり放題であったように思われるが、1回目では買収などは行われていなかったようである。買収が盛んになったのは、第2回からで、最初は両陣営ともに供応が盛んに行われた。

 開票の結果は末広鉄腸の圧勝であった。国会の勢力分野は野党170名、政府党130名であった。山縣内閣はかろうじて第1回国会を乗り切ったが、とうていこのままでは政策遂行の出来ない事を感じ、5月6日総辞職をし、松方内閣が誕生したが、第2回国会では野党により海軍予算の削減をさせるなどがあり、松方内閣も12月26日議会を解散、25年1月15日総選挙を行うことになった。これが我が国史上空前絶後の政府干渉選挙となり、全国各地で野党に対する大弾圧選挙となった。

第2回選挙(政府の干渉選挙)

 この時の内相、品川弥二郎は密かに地方長官に訓令を出し、選挙干渉の決意を促した。これに基づいて、郡長、市町村長は野党候補の選挙妨害を公然と行った。警察も権力を乱用し、野党側のみに圧力を加える。これに激高した、野党側壮士は鉄砲、日本刀を振るい、全国各地で暴力的行為にでて、一大事件となった。

 この、政府干渉選挙で、全国の死者25名、負傷者380人の犠牲者がでたという。
 中でも激しかったのは、佐賀県、高知県で、高知県では郡長代理が殺害され、投票箱が奪われた。佐賀県では随所で乱闘が起こり、凶器を携えた壮士が徒党を組んで駐在所を襲うという事件まで発生した。

 愛媛県第6区宇和島では末広鉄腸、堀部彦次郎、玉井安蔵の三人が出馬した。このとき鉄腸の人気は最初に比べて凋落していた。身は自由党ながら政府の犬であるといわれていた。前回鉄腸を支援した人はほとんど堀部を支援した。ところが堀部は改進党系のために、公然と自由党支持者は支援できない。そのために、堀部の自由党復党を条件に支援することになった。

 玉井は57歳、三候補の中では最年長者で郡議会、県議会の議員経験者であり、中立候補として名乗りをあげ、第6区は三つどもえの激戦となった。

大砲まで飛び出した第2回選挙(東宇和郡)(?)★(困った問題が、詳しくは一番下を)

 そのころ隣の第5区では、自由党の牧野純蔵と政府系の清水清十郎の一騎打ちとなった。官憲は清水を当選させるべく干渉を行った。

 宇和町署長石野はまず両派の運動員を集め「多数列をなし歩く事を禁ず」と戒告した。すると清水派の壮士学長清水新三は
「多数とは何人までか?」と質問した。それに対し石野署長は「三人まで認める」と返答した。清水はこの言葉尻をとらえ、運動員に対して、三人目ごとに間隔を空けて歩き、町内を闊歩する事を指示した。

 当時の壮士は白鉢巻きに白の兵児帯、棍棒を小脇に抱えた物騒な出で立ちで町を縦横に徘徊した。ついには馬に跨って宇和平野を疾駆するという有様であった。 

 これに対して、牧野派の壮士成田栄信は、厳重に宇和署長に抗議したが全く相手にされない。そこで彼は大阪砲兵工廠から払い下げられた古い大砲を持ち出し、田村の峠から清水派の壮士学に向かって、ぶっ放した。

 砲声は四方の山々に響き渡った。これに対し、清水派は無数の鉄砲を集め、相対峙したが、幸いに警官隊の警戒で流血の惨事には至らなかったものの、大砲まで飛び出したことは、当時の選挙戦の中でも稀な例ではなかろうか。
 5区では政府の干渉を排して牧野が勝利した。
 成田は北宇和郡下灘村の出身で、その後明治45以来代議士に4回当選した。

宇和島の選挙

 話を宇和島にもどす。
 堀部は自由党に復党する事を条件に、後援者の支援を得たが、政府は密かに堀部を手中に収めることを画策していた。第6区では政府系の候補者が居ないために三候補者の中では一番若く、手にちやすい堀部に白羽の矢を立てた。

 第5区では清水を、第6区では堀部を当選させることが権力側のねらいとなった。ただ、第6区は他の選挙区に比べると非常に静かであった。

 宇和島署長中野信明は鹿児島県出身で、西南戦争では西郷軍の一員となり戦った経験があった。16歳の青年隊長として孤軍奮闘した生き残りで、田原坂の戦闘の経験もあった。死線をくぐっただけに肝の太い人物であった。政府命令の選挙干渉も、彼にとっては馬鹿馬鹿しくて取り合う気持ちはなかったが、池永本部長から「腰抜け」とののしられ、渋々腰を上た。
 鉄腸、玉井派の運動員に監視を付け、自由を拘束し、また、運動員に対して「外出すると危ないぞ」と恫喝を加えた。
 宇和島における政府干渉はこの程度であったが、候補者は護衛をつけ、また、土佐から多くの壮士がやってくるという噂などがあったが、極めて平穏な状態であった。
 結果は6区では23歳の堀部が悠々と当選した。

 しかしこの干渉選挙が原因となり、この干渉に反対していた陸奥大臣らが辞意を表明、伊藤博文も枢密院議長の辞任を匂わせ、品川内相に辞任をせまり、やがて松方内閣そのものも瓦解する。

 その後6区では明治27年、玉井が再出馬で雪辱をはたし、次いで末広鉄腸も中央に返り咲くことが出来たが、病気のために議会半ばで倒れた。

 31年には、児島惟謙が貴族院議員から衆議院に立候補、2回当選をしている。勅撰貴族院議員を捨て、衆議院に出馬した彼は自己の利益などにはとらわれぬ気概を持っていたのであろう。
 

★困った問題が発生
 宇和郡の選挙に関して、後日津村氏が発行されている「宇和島の明治大正史」を読むと、どうも違う内容になっていることに気がつきました。私が参考にした資料は、昭和32年頃に書かれたものですが、昭和43年に書かれた同じ著者のものでは、第2回選挙は政府干渉選挙に違いないのですが、大砲が飛び出した選挙は、2回選挙が終わり、その議会がまた解散して行われた選挙、すなわち第3回となっており、成田栄信は清水派に属している、となっています。

 つまり、成田栄信がからんだ選挙運動で、大砲まで持ち出しての行動があったことには違いないようですが、時期的なもの、所属の派閥に大きな違いがあります。
 だからと言って、津村寿夫氏の文章が、まったくでたらめであると言うわけではありません。
 後日、正確な内容を調べて書くことにしますが、この事件に対し、同じ著者が異なった内容を書かれていたと言うことだけ、お知らせしておきます。普通は後に書かれたものの方が正確であろうとは思われますが。

★選挙の時期的な事、明治27年。候補者の点、自由党、古谷周道 VS 改進党、清水隆徳。
 成田栄信の属していた候補者、清水派の壮士、成田栄信と書かれています。
 以上が最近判明した相違点です。


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