大和田建樹(たけき)伝 その二

津村寿夫著「宇和島の明治大正史(後編)」より  ※使用禁止
(読みやすくするために、一部改行、誤字訂正していますが、原文のまま)

二つあった鉄道唱歌

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  これより先、大阪の出版商昇文館の市田元蔵は28年の春、京都で開かれた内国博覧会を見聞してヒントを得、予ねて旧知の間柄である建樹に鉄道唱歌の作詞を依頼した。

 建樹も好きな道であったのでこれを快諾して31年12月末から翌春にかけて二人揃って東京から九州まで一巡して取材、出版したものである。そのときは既に横江鉄石の演歌「東海道汽車の旅」と題する長編の欣舞節があり、それには「汽笛一声新橋を」の初句もあった。けれども市田はとてもあきたらず、新作を期待していただけに作曲についても紀元を割するような新しいものを求めて、大阪師範学校の若い音楽教師多野梅雅に依頼した。
 けれども建樹は平素自分の詩歌の作曲を手がけてきた東京音楽学校教授上真行に頼んでいたので、図らずも此処に一つの作詞に二つの曲が作られることになった。
 しかし多野の作った曲の方が評判が良く、とても人気を博した。現在口にされている曲がすなわちそれである。しかるに市田は以前から出版で負債が重なっていた上に、宣伝力もなかったのでせっかく出版した鉄道唱歌も世間に流布することなく倒産して終わった。
 その残本は版権と共に同じく大阪の楽器商、三木佐吉の手に移った。三木は販路の多い自家の楽器に合わせて音楽書の出版を考えるようになっていた。幸い東京には婿の小学校教師がいるので、彼を通じて建樹に鉄道唱歌の版権譲渡を交渉した結果これも気持ちよくまとまった。

 三木はこの知らせを受けると直ちに鉄道唱歌集の販売を開始した。就中代表的だったのは東海道線であって

  汽笛一声新橋を
  早やわが汽車ははなれたり
  愛宕の山に入り残る
  月を旅路の友として

以下65節の長編。表紙には田子の浦から眺めた富士の高嶺を配し「地理教育鉄道唱歌」と題している。30頁の小型、定価6銭となっている。三木は東京から大規模な音楽隊を使い、新橋駅から汽車に乗り込ませて大阪まで大仕掛けな宣伝をするなどして、直ちに数十万部を売り尽くした。

 現に建樹の墓碑にも「鉄道唱歌の如きは草刈る童、汐汲む少女のこれを唱えざる者なし」云々とある。

 このようにして忽ち全国に流行し、津々浦々にいたるまで愛唱されたのである。故学習院長安倍能成などは晩年に至るまで会合の余興には必ず得意となってこれを唱ったものである。更にこの年続いて山陽、九州、関西参宮、南海、陸奥、北陸各線の鉄道唱歌を次々に発表した。

 建樹は先に学校生活を辞めてから後は、毎日殆ど原稿を書き続けた。健筆家であり速筆家であった。興に乗ずれば一夜に数十枚を書くことも決してめずらしくなかった。書生などが健康を心配すると、

 「いや、学生時代には三昼夜一睡もせず勉強したことがある。現在、僕は42歳だが、後のことさえ考えなくば、まだ五日くらいの徹夜は平気である」
と涼しい顔をして答えたそうである。

 従って多くの著書がある。試みに数字的に統計を示すと25年には「謡曲通解」外9種12巻。26年には「日本文人伝」外12種13巻。27年には「明治文学史」外8種14巻。28年には「日本大辞典」外4種5巻。30年には歴史物に感興を覚え「日蓮」外11種14巻の人物伝を、37年には「四十七士」外10種11巻32年には「謡曲六粋」外9種10巻。33年から42年に至る約10年間に「謡曲評釈」「鉄道唱歌」外22種46巻を出版している。実に驚嘆すべき業績である。更にこの余、国会新聞、自由新聞、中央新聞、国民新聞、太平新聞、婦女新聞の各紙、亦早稲田文学、教育時論、太陽、少年世界、中学世界などの雑誌にも筆を執った。

 その建樹も晩年には健康に恵まれず、42年以来脊髄炎を患い、寝る日が多くなった。そして43年の春を迎えた。折から海軍省から軍歌の作詞を依頼されたので病気ながらも「黄海海戦」「威海衛攻撃」「旅順閉塞隊」「日本海海戦「水雷艇夜襲」「軍艦旗の歌」「艦艇勤務」の数編を書き終わった。残りがまだある。然るに俄に病勢があらたまって11月1日遂に死去したのである。

 人間としての建樹は勿論長短相半ばしていたようである。明治35年2月10日の日記によると「体重23貫850匁」とある。まさしく巨体の持ち主であった。汽車の中でお相撲さんの検査役と間違えられた逸話がある。

 その巨漢に似合わず至って狭量で、寛容さがなく短期者で書生をよく怒鳴りつけたものである。その上自信が強くて他人の言葉などには容易に耳をかさない。これらの点は建樹の短所とも云うべきである。
 しかし責任感の強さには定評があった。彼の海軍軍歌を依頼された時、既に病気となっていたのだが「引き受けた以上責任がある」といって家人の制止も聞かず筆を続け、その半ばにおいて倒れた如きもその一例である。

 この精神は建樹の長所ともいうべきであった。交際嫌いは有名なもので、生前旧藩主の処へさえ一度も顔を出したこともなく、先輩、友人との往来も殆ど致さなかった。自分でも「困った正確だ」とそれを認めていた。それが門下生の家などには屡々遊びに行ってよく酒を飲んだ。酒は平素から好きだったが少し酔いが回ると即意当妙な狂歌を吐く、謡曲をやる。更に酒の程度が過ぎると必ず居眠りを始める。これは何時の場合でも同じ癖であった。
 亦日記には極めて忠実で、門下生などでもこれには敬服していた。明治16年から書き始め明治43年9月25日、すなわち危篤直前まで、一日も欠かしていない。併せて198冊の日記があった。
 宇和島では南予時事新聞を創刊した小林葭江などが建樹に心酔していたものである。
 現在宇和島駅頭には安倍能成の揮毫による「汽笛一声新橋を」の記念碑が建てられている。

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以上は、津村寿夫著「宇和島の明治大正史」後編による。一部文章の関係で読点を勝手につけて改行したところがあるが、お許しを得たい。

 最近では、この大和田建樹が宇和島出身であることさえ知らない市民が増えている。学校では、入試に無関係なことは、教えることはないのであろう。しかし家庭で教えることもなければ、何時の日か風化してしまうことであろう。

 私は、当地宇和島が江戸末期から明治にかけてすぐれた人物を輩出したことを自慢する気は毛頭ない。世間には、すぐれた人物がでた地方で、それを自慢げに商売に利用しているところが多い。実に愚劣な考えである。ただ、それを忘れ去ることも困ったことだと思う。
 そこに生まれ育つものが、先人の遺業を如何に継承し、発展させのるか、あるいはその精神をどのように受け継ぎ、次代につなぐのか、ということが大切なことなのではないだろうか。
 残念ながら、今の宇和島市にはそういう精神が失われているようである。これは宇和島市に限ったことではないだろう。日本全国、先人の文化を受け継ぎ、子々孫々に伝えようという、心意気にかけている気がする。
 今、大切にされていると感じられるのは、お金と携帯(ネット=真偽不明の情報)とテレビ(中身ではなく外観重視)しかないと思うのは言い過ぎだろうか。


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