???大村益次郎の写真???
(どうやら偽ものらしい)

これは数年前に亡くなった父の遺品を整理中に出てきた写真である。

何時撮ったものか不明であるが新聞記事をカメラで撮ったものである。
コピー機が普及していればコピーを取ったはずだからかなり昔のことだろう。
同じ封筒には、卯之町の石柱などがあったことからすると、卯之町の誰かが
保存していた新聞の切り抜きであろうか。ネガがあるかも知れないが、今の
ところはそれは見つけていない。以下、ルーペで拡大してみたが読めない。
読める文字を拾いながら、およその推理で、書き抜いてみる。

当然ながら、横書きは右から読むことになっている。
昔の書は全部こうなっているがこれは右書きではない。
縦書きで文字が一文字なのだそうだ。
ある書の先生から教わった話

写真が見つかった

大村益次郎卿

看病したニ婦人へ 御礼に贈ったもの 

【本文記事】
国民皆兵の第一声を唱えたわが皇
軍の父兵部卿大村益次郎が遭難 

-不明-


を切断された躰骨が益次郎卿の師に
あたる緒方洪庵●の●へ 

-不明-  


れていたことがわかり同卿没後満
七十年
を迎える今日
阪大医学部学
友会、大阪●●会などにより同所に
大村兵部大輔●●●碑が建設さ
れ、さらに熊谷部隊長、宇井知事、
坂同市長ら有志の縁起、当の●
●●のあった現三十七連隊場内に
卿の●像を建設がすすめられてい
る折柄、たまたま今日まで世に現
れたこともなかった門外不出の益
次郎卿の写真が発見され同------

【写真説明】
発見された益次郎の写真(左方)
下は看病した三瀬高子(右)と石井伊篤子

管理人考察】
暗殺されたのは1869年 没後満70年は1939年(昭和14年)か?
新聞は読売新聞か(ここではカットしているがわずかに読売新聞と
読める書き込みがある)三瀬高子とは、シーボルトの娘イネの娘であろう。
石井伊篤子とはイネのことか。??イネは石井宗謙の子をはらみ、それが
高子であると聞いている、とすれば、これはイネとシーボルトの孫高子の写真であろうか。
だが、明治36年(1903)8月26日に76歳でイネは亡くなったとされている。

この記事が載っているのが昭和14年だとすれば、石井伊篤子の説明は
どうなるのだろうか?時あたかも、日中戦争の只中である。こう言う記事は
あまり注目されなかったのだろうか。イネは宇和島藩主伊達宗城より伊篤(イツ)
という名前を名乗るように言われたとも書かれている。
彼女の書状には伊篤と署名したものもある(斉藤丈蔵宛書状)
しかしこの記事が出た時には故人になっているはずだ。
であれば故と書くのではないだろうか。高子は何歳頃なのか?
この記事自体正確なものなのかも疑問になってくる。


大村益次郎とされる人物の右目の横に黒いものがあるが、
これは汚れである。益次郎の写真は現存していないと聞くが、
残されている肖像画と額のあたりはそっくりだ。口はスケ口か。

後日・山口市歴史民俗資料館に問い合わせた結果、これは集合写真の
一部で、大村益次郎と断定するには疑わしい、とのご返事を得た。
大村益次郎とされる人物は十五人くらいいる人物集団の左から
三番目に位置する。本来なら写真中央に居るべきほどの地位である。

写真は「中公新書」の「大村益次郎」という本にも、三瀬家に伝わるもの
として紹介されているそうだ。

また、集合写真に写っている人の中には、帽子を被っている人
コウモリ傘を差している人などもいる。山口市のU氏からの書状には
以下の理由で、大村益次郎と断定出来かねる要旨が書かれていた。

1 時の陸軍大臣クラスの人物が端に写っていることに疑問を感じる。

2 明治2年、襲撃される直前の写真だそうだが、廃刀令が出たのが
明治4年8月であることを考えれば、刀を持っていない事がおか
い。これと同じ頃、勤王の志士の集合写真の偽物で有名な、
フルベッキ博士のものがあるが、あれらの人たちは皆刀を持っている。

3 こうもり傘を持っている人が多く写っているが、明治2年に、それほ
どこうもり傘が普及していたか?また、帽子を被っている人もいる
が、そういう服装がこの頃に流布していたのか疑問だ。

というような、丁寧なご返事を頂いた。

よって、この写真は、真実にほど遠いものである事をお断りしておく。

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