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文学士中野重太郎、号逍遙。若くして世を去った宇和島出身の天才詩人である。
彼の尾崎紅葉、幸田露伴、夏目漱石、正岡子規等が明治文壇に漸く台頭したころの人物であり、彼も詩人として大いに将来を嘱望されていたが遂に大成をみず、僅か27歳で夭折した。
逍遙は慶応3年2月11日、(現・宇和島市)賀古町中野五郎の長男として生まれた。妹に竹、弟に為雄がある。逍遙は鶴島小学校を経て南予中学に入った。そのころの校長は都築温、教頭は斎藤蟻雄であった。ここを卒業したころ、親族の穂積陳重は既に旧藩の学資給与を受けて上京し、専ら勉学中である。また、大和田建樹、木村鷹太郎、二宮孤松、須藤南翠等も相次いで上京する。
これらに刺激されて逍遙も明治16年、勉学を志し、彼らを追うように上京した。17歳の時であった。
まず、神田の成立学舎で英書を学ぶことになった。彼の書いた随筆の一節に当時を追想してこう述べている。
「東京の地四辺山なく四里曠茫、厳冬寒気頗る烈し。三月に至りて溝氷初めて解く。北は常陸の筑波山。山風、風雪を帯び、南は品川湾の沿岸、海気氷を散ず、南土の人ここに来る者水土の変、風気の異に逢い、老弱多くは調子を誤るという」云々
暖かい南国育ちの逍遙にとっては見るもの、聞くもの、悉く意外の感にうたれたようである。
春秋を経過して明治23年7月には第一高等中学校を卒業、帝国大学に進んだ。当時の同窓生には、彼の正岡子規、夏目漱石等がある。逍遙は漢文科、子規は国文科、漱石は英文科を選んだ。子規だけは25年に落第したのを気にしてか中途退学をして終わった。
逍遙の家庭は貧しかったので、学資は旧藩主の励学金を借り受けた。それでも父母はずいぶんと苦労したらしいが「子供だけにはせめて最高学府を卒業させたい」とがんばり通した。然も選んだ学科は時代離れのした漢学である。これには南予中学の教頭斎藤の影響もあったと思われる。当時は世を挙げて西洋万能主義で、いずれもこれに心酔している。この時代に漢学を志す者は殆どなく、周囲からも「そんなものを勉強して飯が喰えるか」とよく言われたものである。
けれども逍遙は少年時代から漢学の素養があったので初志を貫くことにした。
だが、周囲の反対する中で唯一激励してくれた人物があった。それは同じ漢学者の一人重野成斎であった。
「西洋物には俗説が多い。君は君の信ずる道を真っ直ぐに歩めば好い」
というのである。逍遙もまた成斎に心をよせて深く尊敬していたので、この言葉を力強く感じた。
逍遙は大学でも秀才で、勉学はめきめき進んだ。眉目秀麗の青年であったが、体質は何れかと言えば蒲柳で弱々しく見えた。それでいて頗る健脚家で、大学の余暇をさいてはよく地方を飛び歩いたものである。
「余は気を持って歩く。だから乗り物はいらない。水戸まで三十里を2日で踏破してまだ太陽が残っていた」
と自ら語る位である。
而(しこう)してそれ等の途次旅情を多くの詩に托するのであった。水戸に遊んだ時の収穫に曰く。
水戸西に去って帰程を数へ
沿道の修竹戛(ほこ)として玉声あり
雲は渓叡を呑みて大樹を失い
剣は瓢風を佩(お)びて馬蹄驚く
百年の盛衰一夢に帰し
人の敗成を説く無きを歎息す
独り留む寒土一片の涙
落日天に立つ笠間城
学生時代既にこうした漢詩がある。その他にも多数あるが何れを読んでも如何に豊かな天分を有していたかが伺われる。然も逍遙は父母思いであり、弟妹を愛していた。余暇があると常に故郷への手紙を怠りなく書いた。現在でもそれが地方にたくさん残っている。父に宛てた手紙の一通に次のようなものが残っている。
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この一文によっても逍遙が如何に心の優しい性格の持ち主であったかが判然とする。なおこの他、父に宛てた手紙のなかには、自信の雑事はもとより、旧藩主の近況報告、政界の動向、学問に対する心構えを書いたものが多い。
堀部彦次郎が初めて代議士となって上京したときの模様などは政界の動静としては頗る面白いのもがある。
学問上の意欲を叙したものの中に次の一節がある。
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このようにさかんな意欲に燃えて勉学に努めている。然も大学での成績は依然として優秀である。
母に宛てた手紙には 「自分のために経済上の苦労をかけて申し訳ない」 とか、東京の文明開化の事を伝え、「田舎では及びもつかぬ有様である」とか、更に身の回りの事を書いたものが多い。この外母の好きな小説本の中から「水滸伝」「藪の鶯」などを送って慰めている。
また、弟為雄は既に学年に達しているので成績を心配し常に父に宛てて激励させている文面のものがこれもまた沢山ある。次は父に宛てて、弟を案じている文面の一節である。
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当時の学校教育に対し辛辣な批判を下し、弟の向学についても細々と父の配慮を求めている。これとは別の手紙では
「為雄書物入用の儀申し越し、此の度万国史直訳の方だけ進じ申し候」
とある。而して度々書物などを送って学問の上達を期待している。小学生に対して万国史を読ませたり、英書をあたえるなどなかなか厳しい態度である。
それほどにして将来を期待していた為雄は25年の晩秋病気のため床に臥して終わった。知らせを受けた逍遙の心痛は一方ではなく、見舞いのために12月末東京を出発して帰途についた。然るに折り悪しく悪天候が続いて降雪の日が10日間。やむなく佐賀関の宿屋で5日も泊まらねばなかった。(管理人注・無知な私は当初列車で九州に行き船で宇和島に渡るのが最短コースなのだと思っていましたが、その当時山陽線が未開通であった事を、呉市のK氏からご指摘されました。何故佐賀関なのか、今のところ不明ですが明治18年に宇和島運輸が阪神航路を開いたのでそれを利用して宇和島に帰る途中、悪天候の為九州で足止めをくったのかも知れません)
帰心矢の如き逍遙にとってこの時間は例えようのな苦しさであった。この宿で賦した漢詩の一節に
「愛弟病に臥して夢頻々、旅窓月落ちて夜の悲しみに堪へず―」
という意味を叙している。
賀古町に帰宅して見舞うと為雄は既に重体の状態となっていた。而して逍遙が帰京して間もなく死去した。
逍遙の失望落胆、俯伏慟哭満腸綿々として抉られたのである。帰京しても悲観のあまり、家に籠もって長らく外出しなかったそうである。当時母に送った手紙にも
「秋風たてば人の命も脆くなるや、草木と共に朽つべき身にもあらぬものを」
と悲しみに傷ついた心境を斯う述べている。
その逍遙は明治27年3月めでたく大学を卒業した。然も優秀な成績で卒業した。父母は貧乏士族の中から最高の学府を卒業させたのであるから、その喜びは一層大きなものがあった。そこでこれを機会に是非とも妻帯させて家を持たせたいと頻りにすすめた。けれども本人は
「まだ、研究したい学問が残っているから60歳になるまでは女房はいらない。それまで書生としての道を押し通させて頂きたい」
と断った。
父母もこれには当惑した。その逍遙にも「恋の想い出」はある。
その相手は、友人佐々木信綱の主宰する歌人団体「竹柏園」の同門で群馬県館林の素封家、南条の娘貞子であった。この深窓の佳人に燃ゆるような情熱を捧げ、胸中を叙した漢詩に「思君十首」「南氏の娘」「貞麗郷」などがある。例えば思君十首の中には
「君を思うて我が心傷み君を思うて我が容瘁(かたちおとろ)う」
「中夜松蔭に巫す露華多く涙に似たり」
などの一片が見えている。以て逍遙の心中を察するに余りがあろう。しかしこれは実を結ばずに遂に悲恋に終わった。これが父母からの縁談を断る心境の導因となったか否かは筆者(津村寿夫の事)には判らない。
【管理人注・筆者津村氏は、ここで恋愛問題をさらりと流しているが、世間では、この悲恋が逍遙の人生に対する前向きな生き方を変えたものと評価しているらしい。私も同感である。「思君十首」「南氏の娘」「貞麗郷」などという題からして、いかに逍遙が恋焦がれていたかを実証している。彼ならでの浪漫至上主義の表れではなかったか。文学者として、恋愛がその芸術性を高める事実は古今東西様々な実証が為されている。駄作かも知れないが、「マノン・レスコー」「ボバリー夫人」なんて好きだった。―これ余談―】
斯くて逍遙は更に大学研究科に入り、年来の宿志である「支那文学史」の研究に着手した。これにはよほどの自信があったらしく
「日支文化の交流に立派に役立ててみせる」
などどよく友人仲間に語っていたものである。
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逍遙には生前多くの漢詩があった。それは既に一家を成していた。現に「日本文学事典」に曰く
「彼は作法において良師、好友を得ず、独り李杜の詩、韓■(注・外字=ユニコード50453、人へんに屋)の艶詩などに親しみ、傍らシスレルの詩を愛誦してその神髄にふれることに努めた。
却ってこれは幸いしたようである。彼は漢詩の窮屈な詩形的約束や表現法に捉われることなく、自由に青春の者のみが有ち得る狂熱的な情緒とやるせない憂鬱とを華麗にして雄渾、豊艶にして沈痛な調べの中に詠み得たのである。由来彼は本質的な抒情詩人で漢字を操ることの巧みさにおいては森槐南、本田種竹に遠く及ばないが、詩人としての素質においては寧ろ両者の上にあり、浪漫的情熱も新体詩の北村透谷や島崎藤村を凌ぐものがあった」中略
而してその秀作としての彼の「秋怨五絶」を掲げている。
「秋 怨 五 絶」
梧桐葉落ちて霜を下すの初
賓雁愁を呼んで砌除を度る
帰鳳愁うぃ求むるも人の奏ずる莫し
秋風痩骨相に病うに如たり
香は鎖して南国美人尽き
霜は落ちて東京秋色来る
夜半天風桂子を吹く
玉琴声は在り鳳凰台
秀才香骨幾人か憐む
秋は長安に入って夢愴然たり
琴台旧譜■前の柳 (■は手偏に慮)
風流鎖尽す二千円
松間の明月相思を照す
滴下す長空鴻雁の涙
我鉄笛を吹いて高秋に向かう
曲裏凋物尽く翠を成す
金■百里関河を渡る (■は風偏に炎)
木葉蕭々として海波せんと欲す
傷心一片悲秋の涙
吾長江と多きを較可し
逍遙には多くの漢詩の他に若干の評論、随筆、紀行文、和歌などがあった。けれどもこれを世に問う野心もなく、長く笈底に埋まったままであったが、生前の友人達はこれらを惜しみ、故人の一周忌に際して「逍遙遺稿集」二巻にまとめ明治28年11月に500部を出版した。その巻末に正岡子規は斯う書いている。
正岡子規による追悼文 |
志士は志士を求め、英雄は英雄を求め、多情多恨の人は多情多恨の人を求む。
逍遙子は多情多恨の人なり。多情多恨の人を求めて終に能わず。乃ち多情多恨の詩を作り以って自ら慰む。天覆地載の間を尽くしその資料たらざるは無し。紅花碧月、以って多情を托す可し。
暖雨冷雨以って多情を寄す可し。而して花月の多情は終に逍遙子の多情に及ばず。煙雨の多恨は終に逍遙子の多恨に若かざるなり。
是において逍遙子は白雲紫蓋、去って彼の帝都に遊び、以って多情多恨の人を九天九地の外に求めんとす。
爾来春鳥音を伝へず。仙跡沓として知るべからざる。同窓の士、同郷の士、相議してその遺稿を刻し、以って後世に伝へんとす。
若しそれ多情多恨逍遙子の如きものあらば徒らに此の書を読んで万斛の涕涙を灑ぎ尽くすと爾云う。―中略―
(更に終わりに)
春風や天上の人我を招く
いたずらに牡丹の花の崩れけり
鶴鳴いて月の都を思うかな
世の中を恨みつくして土の霜
の弔句を添えている。
また後に処女詩集「若菜集」を出した島崎藤村はその詩集に逍遙を追憶して
悲しいかなや流れゆく
水になき名を記するとて
今はた残る歌反古の
ながき愁いをいかにせん
以下13連の哀調切々たる長詩を掲げている。
逍遙の墓は宇和島市光国寺川畔にある。今は詣ずる人も稀で「文学士中野重太郎」の墓碑のみがいたずらに風雪にさらされている。
【管理人コメント】
中野逍遙伝については、津村寿夫氏の書籍「宇和島の明治大正史・後編」から引用させて頂きました。文章の一部を読みやすく改行した所が在ります。原本に忠実に記述したつもりですが、誤りがあればお許し下さい。
宇和島から約20Km東にある、松野町、松丸からは、これも若くして夭折した俳人、芝不器男が出ています。逍遙、不器男。何れもキラリと光る豊かな感性を覚えます。私も宇和島在住ながら、逍遙について余り詳しいことは知りませんでした。改めて、多情多恨の士・中野逍遙について知識がふえました。余談ながら、遺稿集に載せられた子規の追悼文には脱帽です。流石に天才だけあって、見事に感情のこもった、それでいて気品にあふれた文章です。子規の出身地松山では、相変わらず、子規を売りものにしていますが、どうも、子規の感覚と今の松山の感覚は全く違うような気がします。子規は、外在化された自己と内在化した他者、自然。それらをどうとらえるのか模索しながら、常に自己と向かい合っていたような気がします。
それに対比して、のんびり、温泉につかって、タルトを食べながら、ああでもない、こうでもない、というのは正岡子規とは異次元な気がします。だからこそ、夏目漱石が松山を訪れ、そしてすぐ去っていく。漱石は子規とは話しがあっても、松山を徹底的に嫌悪していたようで、坊っちゃんの最後の章で、松山を「不浄の地」とまで書いていますが。ここまで書かれても「坊っちゃんスタジアム」などと名前を付ける神経の図太さには恐れ入りました。それとも、不浄の地だと自覚しているから平気なのか、或いは坊っちゃんを読んだ事が無いからなのでしょうか。まあ、人様がつけた名前、ご自由につければよろしいのですが、これからずっと夏の高校野球の県大会では、その名前を耳にするかと思うとうんざりです。できれば市営球場と放送では言ってもらいたいものですが。
話がそれました。松野町では、俳人・不器男にちなんでいろいろやっているようです。今の宇和島の文化レベルでは、とうてい逍遙に関してのことをやることは無理でしょうが、明治の開明期、日本文壇に彗星の如く現れ、そして散っていった、宇和島出身の浪漫歌人・中野逍遙の事を市民にもっと多く知らしめる必要があるのでは無いかと思います。(だいたい今の学校の先生が郷土の事をよく知らないようです。そんな事は生活上知る必要がないのでしょう。受験、受験でエリートの道を歩む上では、無用な知識なのでしょう。逍遙が父に宛てて書いている明治の教師も同じだったのかも知れませんが。)
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