中野逍遙

中野逍遙


 逍遙、中野重太郎は慶応3年2月、賀古町に生まれ、幼にして俊才、南予中学、大学予備門(後の一高)より東京大学漢文科に進学、明治27年同科第一回の卒業生となり、続いて研究科に残り、支那文学史の編纂中、同年秋、急性肺炎にて病没。28歳の若さで世を去った。

 大学同窓に夏目漱石、正岡子規らあり、その死を惜しみ、同郷の有志等により、逍遙の中学、大学時代10年間の漢詩、文藻を集め、その一周忌に「逍遙遺稿」正外二編が出版された。

 彼の詩才は、その資質よりして漢詩の形式を採りながら、彼の情熱と叙情をロマンチックに表現した。日本近代詩の先駆をなしたと言われる。

 新体詩の開祖、島崎藤村も、その処女詩集「若菜集」に逍遙をたたえ悼む「哀歌」を発表。また、日夏耿之介は詩論の中に評して「二十代のロマン的春愁を四角な漢字に託して、反って新体詩以上の効果を示しー」といい、田山花袋も「一時、洛陽の紙価を高めた」と言うに至った。「逍遙遺稿」ただ二編によって彼の死後高く評価されたのである。

 彼の詩藻を深め、高め、また、その死期を早めたのは、彼の純情にして情熱的な初恋であったと伝えられている。

 同志、歌人佐佐木信綱との友好深く、その竹柏園の同門に群馬県館林の素封家の子女南条貞子があった。この同門の深窓の佳人に強く情熱を傾けた逍遙は、「思君十首」「南氏之君」「貞麗郷」等捧げる詩をものしたが、ついに片恋になったといわれる。死の直前まで彼は思慕の情を傾けて詩作し続けたが、はかなく明治27年11月16日、山竜堂病院で寂しく急逝したのであった。

 その死にあたり、信綱は弔辞に 多情多恨 と哀惜し、子規は追悼句を詠んで、このロマン詩人の早逝を悼んだ。

  いたづらに牡丹の花の崩れけり  子規

 墓は宇和島市妙典寺前「光国寺」神田川(じんでんがわ)のせせらぎの近くにひっそりとたつ。

 墓誌は恩師、重野安繹博士による。 法号 俊聴院素朴偉重居士

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