国鉄・八幡浜-卯之町間開通


 宇和島を中心とする鉄道の状況は、昭和8年8月に私鉄宇和島鉄道が国鉄に買収され、次に宇和
島・卯之町間の建設工事が翌年4月に着手された。旧宇和島鉄道の線路は狭軌(軌間2フィート6イン
チ)であったため、この軌道を残してこれまでの列車を運行しながら、広軌のレールを敷き、沿線路盤の
付け替えを要する場所を改良した。

卯之町に通じる法華津峠山脈の隧道工事も難航を極めたが、昭和14年にはほぼその工事も終わっ
た。

 この区間は、その後およそ2カ年も放置されて、線路は草がぼうぼうと茂り、枕木はむなしく風雨にさら
された。隧道も人馬の行き交う道になってしまった。これは戦時体制下の深刻な影響で、機関車、及び
車両配置の困難さによるものであった。

 このころ、、八幡浜・卯之町間の工事は少しも進捗せず、関係町村民だけでなく、八幡浜から南の地
区や、遠く循環鉄道を待つ高知県の人々をもいらだたせることとなった。

 この間、昭和13年12月に「国鉄第百三号線促進期成同盟会」(会長宇和島市長)ぼ発足を促し、運
動を開始することとなった。

 昭和14年11月、四国西南地域は一丸となって循環鉄道建設の停滞に心を痛め、早期解決と工事の
進捗を促すため、発展的に「予土西南部鉄道期成同盟会」を結成し、強力な運動を始めた。 中略

 昭和16年6月5日、待望の国鉄用機関車及び列車車両が山口県下松の日立車両製作所から海上
輸送により、吉田港に陸揚げされ、試運転の後7月2日卯之町・宇和島・吉野生間の開通を迎えること
が出来た。

取り残された八幡浜・卯之町間の路線は、三瓶迂回線問題のために決定が遅れていたが、中略

昭和18年9月にようやくこの区間の工事着工が決定されたが、時期的に労力、資材、特にレールの調
達が問題となっていた。

 これについて「宇和島の明治大正史」(津村寿夫著)では、当時の上田市長が高畠、毛山両代議士そ
の他と協議して、予讃鉄道の幹線という大の虫を生かすためには吉野生間のローカル線を犠牲とする
も屋無を得ないとの結論から、地元の諒解を求めようとしたが目的を達成できなかったこと、やむを得
ず、伊予鉄の松山・高浜間の複線を単線としてそのレールの供出方を当時の知事の斡旋で会社に
懇願して、これを実現できたと言ういきさつを記している。

 労力の奉仕は北宇和郡、東宇和郡、西宇和郡の青年団や一般住民が動員され、三崎半島の端から
も団体で参加している。

 区間の枕木は各村に割り当てて供出して、宇和島でも市の理事者や市会議員、各町区長をはじめ、
市民が順番で出動して、八幡川原の砂利を北宇和島駅に運んで輸送した。この、地域をあげての奉仕
の精神と激しい労働に耐えて立ち上がった南予が一体となった、献身的な協力の姿は、後世の我々が
見習わなければならないものではないであろうか。

 こうして八幡浜・卯之町間は大戦末期の昭和20年6月に完成し、7月から、予讃線はついに高松・宇
和島間の全線開通を迎えた。

この八幡浜・卯之町間14・6キロメートルの工事は、昭和16年〜17年にかけて、時局緊迫の非常時
で、一切の新線工事を休止していた時期に行われたもので、資材と労力は先述した通り、厳しいもので
あった。地元の熱烈な陳情と、協力もあったが、本土決戦を決意していた軍部が軍事輸送の必要性を
みとめ、鉄道部隊一小隊を派遣して、架橋や工事を手がけた。

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