日振島戦争秘話

 一般的に余り知られていないようであるが、宇和海の中心に位置する日振島は、その場所
から軍事的な要衝であった。
連合軍が、瀬戸内海、中国地方の軍事的目標、大都市の無差別爆撃をする場合、足摺岬、
由良半島、佐田岬を目標に本土爆撃を行ったようである。そういう関係から豊後水道上空を
通過する時には、必ず日振島上空を通過した。また、潜水艦の通過することも想定され、豊
後水道は日本軍にとっても、防衛上重要な場所になっていた。

 帝国海軍「佐伯防衛隊日振衛所」が喜路に設置されたのは昭和17年のことである。
下士官5名、看護兵、主計兵合わせて26名の守備隊が駐屯した。後には海軍作業隊も来る
ことになる。この施設は極秘施設であるために、島民にも詳しいことは知らされて居ない。
 (昭和15年に施設が作られた、という記述もある)
主な任務は、豊後水道からの敵艦の侵入を防ぐために監視するというものであったが、戦局
が激しくなり、敗色濃くなった頃には、人間魚雷(特殊潜行艇)の基地として使用も考えられ、
実際その建設作業も行われたようであるが、実戦配備には至らなかったようである。(文章で
は特殊潜行艇と書かれたあるが、ベニヤ板で作られた、人間爆弾震洋ではないだろうか)

 初期の主な装備は。
97式水中聴音機 5基
高射機関銃(12粍)1基
92式小銃     5丁
艦艇用双眼鏡(80倍) 1基
ディーゼル発電機(3kw)1台
電話機          2台
機雷(浮遊機雷=93式) 1個

 最初は海軍による艦船監視であったが、やがて本土空襲が激しくなると、防空監視所も設
けられた。

 銃座は山の上の一本松という場所に取り付けられた。
 順序は年代通りではないが、以下のようなエピソードが関係者の話として残されている。

◎日振島の豊後水道側は航行禁止となって、住民の業業も禁止された。
◎一本松監視所の機銃が米軍機に発砲したためにグラマン機の反撃をうけ負傷者が出た。

◎若い海軍兵士と島の女性の間で愛が生まれ、5組の結婚が成立した。
◎手製の手榴弾で兵士が魚類をとって居るときに、暴発事故が起こり兵曹が死亡した。
◎昭和20年のある日、島民に外出禁止令が出た。この日は、大和を旗艦とする連合艦隊が
出撃のために豊後水道を通過したのではないだろうか。
◎空襲が激しくなり航行中の船舶が激しい機銃掃射を受けていた。
◎島にも米軍機からの機銃掃射が行われ、子供を背負って逃げようとした主婦が銃弾をあび
たが、一命を取り留めた。
◎島の西側絶壁近くに、米軍の双発飛行艇が機関不良のため不時着水した。衛所長に発砲
の許可を求めたが、報復をおそれて発砲は許可されなかった。
 などの話が残っている。

 日振島以外では、宇和島坂下津の海岸に近い山の中腹に延々と塹壕が掘られていたこと
を思い出す。小学校の遠足でいった処には、土が掘られて、大きな溝のようなものがあった。
後で先生から、これはアメリカ軍の上陸に備えて掘られた塹壕跡だと教えられた。
今でこそ産業団地になり、面影をしのぶ由もないが、市内坂下津には予科練があった。私が
子供のころには爆弾の落とされた跡は大きなくぼみの池になっていた。また、各所にコンクリ
ートで作られた地下壕の入口があった覚えがある。近くの海岸からは投棄されたと思われ、
日本軍の弾薬が大量に出てきた。38式銃弾。99式銃弾。14年式拳銃弾。中には手榴弾を
拾った人もいた。銃弾はさび付いていたが火薬は生きていたようだった。

引用。平成14年1月18日、三重大学出版会発行「日振島のはなし」

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