デラ台風により日振島で多数の遭難者発生
(昭和24年6月20日)

引用―平成14年1月18日、三重大学出版会発行「日振島のはなし」より

 昭和24年6月20日夜半から21日の朝にかけて、九州中央を縦走したデラ台風は、宇和海
地方に出漁していた漁船団に壊滅的な打撃を与えた。
 実に其の被害は230名の漁民の命を奪う大事故であった。
その状況を、宇和海沿岸の漁民に多く及んだが、なかでも八統の巾着網で106名の犠牲者を
出した日振島にその被害状況を見る。(資料文献・日振島のくらし)

 デラ台風は昭和24年6月17日、米軍航空隊によってフィリピン東方海上に発見された。この
年では二番目に発生した台風であった。

 当時の松山気象台の記録によれば

「昭和24年6月15日3時頃に低圧部としてパラオ北方海上に発現して、北西へ時速20q内外
で進行し、19日3時頃から発達しながら進路を北北東に変えた。19日18時45分の飛行機通
報によると、中心付近では風速100ノット(約50m/s)中心から240マイル以内では60ノッ
ト、425マイル以内では30ノットであり、危険半円では『怒濤山の如し』であると形容されてい
た。
 その後台風は次第に速度を増しながら琉球列島に沿って時速平均60キロくらいで北東に進
み、20日12時頃沖縄、16時30分名瀬、21時07分屋久島を通過した。
 このまま北東に進み、紀伊半島沖へ向かうと予測されたデラ台風は、屋久島を過ぎる頃から
突然進路を真北に変えた。時速60キロで大隅半島の突端佐多岬、薩摩半島の指宿をへて、2
3時10分には鹿児島を通過した。
 その後、台風は次第に速度を減じ、かつ衰弱しながら、九州の背りょう山脈に沿って北上し、
対馬海峡より朝鮮沖に至り、東に転向して能登半島付近で消滅した」

 デラ台風が鹿児島を通過した20日23時10分頃は、日振島の鰛(いわし)揚繰網(通称巾着
網)船団は目指す漁場に到着し、火船は集魚灯を海中に投入して漁獲の準備をしていて、台風
の接近には気づいていなかった。
 夜半頃に急に暴風雨が襲ってきたために、船団を組んで避難行動に移った時刻は、デラ台
風が人吉付近を通過したと思われる23時46分頃から日田付近を通過したと思われる21日3
時頃の間であったらしい。

 最も早い避難行動を起こした「新力丸」が24時頃、遅い網で3時頃であったようである。
 宇和島市での最大瞬間風速が21日2時に29.2m/s、(時速約100km)佐田岬では38.
5m/sとの記録があり、2時から3時までが一番激しい時間であったと思われる。

 当時は、現在のように気象衛星の情報から、逐次天候の変化をつかめる時代ではなかった。
占領下にあった我が国は台風の観測は、米軍の観測機からの情報を得て、台風発生を知り、
本土に近づいてからは各地の気象台が観測し、ラジオによって気象特報として流されていた。

その日の台風情報がどのように流されていたのかを記す。

◎測候所の気象特報によるもの
 20日午後2時半頃、ラジオによる気象特報が流された。
 20日午後9時すぎ、進路変更の特報を出した。
 松山測候所は20日午後10時瀬戸内海陸海厳戒を、進路変更の第三次気象特報とし て流
した。

◎国警察県本部によるもの
 国警県本部が台風情報をキャッチしたのは3時10分。それから各署に通知して5時に完了。

 北宇和郡下灘村では、芝巡査が20日午後4時頃気象特報がでた事を役場に通知。
役場→網元に伝わり1名の遭難者もでなかった。

◎各村
●遊子村
 遊子村では通常小舟が親船より先に出漁するので、6時頃気象特報を受け取ったために、親
船はほとんど出漁していない。被害を受けたのは先に出漁した小舟であった。

●蒋渕村
 蒋渕村で九死に一生を得たMさん(当時30)は「当日夕6時半頃宇和島から台風の警報がで
たので、出漁を見合わせようと思ったが、他の船がでるのでじっとしておれず漁に出た」(愛媛
新聞)

●戸島村
 戸島村では、その日は電気休日でラジオを聞くことが出来なかったが、古老が雲行きが悪い
と云うことで、出漁をやめさせたことから被害がわずかですんだ。

●日振島村
 被害の一番大きかった日振島では、当時電気が無く、ランプ生活であったため、ラジオを聞く
ことが出来なかった。気象特報が何時入ってきたのか不明であるが、出漁1〜2時間後であっ
たようである。

 このような状況下で台風情報伝達には駐在巡査が大きな役割を果たしていた。
当時の愛媛新聞によれば

「遭難防いだ警官、下灘村見事な“特報リレー”」
の見出しで次のような記事がある。
(数字は原文は漢数字であるが、横書きの都合上アラビア数字を使用)

「北宇和郡下灘村では気象特報を駐在巡査が役場・網元などへリレーして一名の遭難者も出さ
なかった。芝駐在巡査は20日午後4時頃気象特報のでたことを早速役場に通知したので吏員
が出漁中の栄進網、元福網に連絡。驚いた漁網元は曳船を網の仲に出航させ下灘村竹島沖
で漁獲中の四統(乗組員60名)を曳航、よる9時ころ帰港した。他の漁船は気象特報で出漁し
ていなかった。」

 日振島の網で唯一被害のなかった明海部落の畠山網は、当時瀬戸内海の長浜方面に出漁
していって、20日の夕刻、出漁準備をしている処に、長浜駐在巡査から台風が近づいているの
で出漁しないように警告を受け、出漁中止したために、難無きをえた。

 これは的確な情報を得たためと判断が正しかったために遭難を免れた例であるが、情報を得
ながらもあえてそれを無視して悲惨な事故を起こした例もある。

 川崎汽船の定期旅客船「青葉丸」(599トン)は門司高浜航路の就航船であった。その日、巡
査の警告を無視して乗組員48名、船客93名を乗せて6月20日21時高浜港を出港し、21日
3時ころ大分県姫島東方10浬(カイリ)沖で転覆沈没し、ほとんどが帰らぬ人となった。原因
は、警告が出された当時は、海上は穏やかで、台風の来襲など信じられない状態であったとい
う。
 これは「梅雨に台風は来ない」と信じ切っていた遭難した漁民にも共通していた感覚であった
のだろう。

 日振島の漁民の間には、旧暦4、5月には「よもぎの根に綱をとれ」「梅雨に大風は吹かない」
「ながせには台風は来ない」という事が信じられていた。これは気象学的なデータとしてもまった
く根拠のないことではなかった。

本誌によれば日振島漁民遭難の理由として先に述べた
1 台風の進路が急変した。
2 台風に関する情報が不足していた。
3 季節的に台風は来ないと信じていた。
の他に次の事由をあげている。
4 当時の宇和海は不漁続きのため無理をして出漁した。
 当時の寒村の漁民の生活は今では考えられない貧しい状態であった。

この、近世まれな宇和島地方の大災害を当時の愛媛新聞の記事からさらに拾ってみる。

(昭和24年6月22日)
見出し「デラ台風 本県に猛威 行方不明800人 死亡(推定含む)69南予漁場の惨事

 ―本文― 20日夜来のデラ台風は最高風速30米で九州に上陸したため本県では南予海岸
部および宇和島に出漁中の漁船などに甚大な被害をあたえている。廿日(21の誤りか?)午後
10時までに判明した船舶の流失、沈没、破損は総数400隻にのぼり、これに伴う死者10名、
軽傷4名、行方不明797名となっている。この多数の行方不明は大半が北宇和郡日振島村の集団いわし網船である。
 すなわち北宇和郡日振島村の多加網、林網、米田網、俵網、米田網、笠岡網の5統46隻が
20日夜7隻の船に曳航されて出漁したが、豊後水道で台風に遭遇した各網船ともちりちりに引
き離され、漁船は何れも行方不明となった。
 乗組員は総員328名で21日にいたるも全部の詳細は不明であるが同日午前3時西宇和郡
三机鹽(しお)成沖に日振村船籍の発動機船小栄丸が漁船2隻を曳航して救助された。同船の
行方不明者は――中略――(殉難者のリスト参照)
 このように熟練の漁民達が一様に遭難したことは珍しく、地元の人々も前例のないことといっ
ている。――中略――

北宇和郡地区署調査の捜査状況は次の通り。
蒋渕村の遭難者がトップを切り遭難漁船154隻、乗組員822名に及んでいることが判明。この
ほか戸島村不明、奥南村を加えると900名をこえるのではないかとみられている。
▽遭難漁船(乗組員)蒋渕村66隻(357名)、日振島村53隻(328名)、下波村21隻(100
名)、遊子村14隻(37名)――後略――
新聞記事では日振島のいわし網漁船は5統46隻となっているが、本誌によれば8統56隻であ
るらしい。

 災害の模様は、「山のような大波が打ち寄せ、船と船をつないでいた直径4センチのマニラロ
ープが切れはじめ……」と想像を絶する模様であったが省く。

 このデラ台風の大災害を境として、宇和海の漁業はやがて栽培漁業に変遷をたどりはじめ
た。

 穏やかな海には、栽培漁業に移行した、いけすのいかだが浮かぶ、宇和海を望む遊子の丘
の上に建てられた、殉難者の慰霊碑が、静かな宇和海をやさしく見守っている。

日振島の殉難者の名簿を見る

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