吉田藩・忠臣・安藤継明

南豫史から引用、出典は「伊豫簾」「安藤忠死録」からと思われる

天明七年に及で三間郷の農民泰平に押れたる政治の漸く不行届となりしを恨み強訴を謀

り、事露見してその頭取なる三島の神主土居式部、樽屋與兵衛の両人を禁獄したり。此の

時古来連綿たる三島の神主家も断絶し、両人は遂に獄中に憤死したり。

 後四年を経て寛政二年二月六日村賢八十四歳にて逝去し、嫡子村高左衛門と称して十

五歳なるが病弱の故を以て二男分三郎十三歳にして相続したるも若年の事とて常に江戸

に在り、吉田の政治は飯淵庄左衛門、松田六郎右衛門、尾田隼人等に依て遺憾なく執り

行はれ、殊に安藤儀太夫は宇和島家村候の覚え目出度く抜んでられて家老の列に加り為

す所あらむとせしも泰平に押れたる士民は漸く政治を有名無実ならしめ、下吏の内にも殊

に中見役の如きに至ては常に賄賂を貪り厭制を加へ領民の忌嫌その極に達したるものゝ

如し。

寛政四年の冬吉田領中在浦八十三ヶ所の農民徒党して吉田町の法華津屋を破壊せむと

企てぬ、法華津屋は高月両家とて由緒ある旧家の事なれば先年来紙楮の仕入れを命ぜら

れたり、此は製紙を副業とする在方の農家に仕入金を貸与して其の利便を計らしめたるに

高月両家は其貸金に高利を掛け製紙は下直に買取るため借財漸く嵩み困窮の余り己むな

く抜荷する者あれば評議の末吉田に紙座を設け、目付池上三平、今城利右衛門を、収頭

に影山才右衛門、檜垣甚内、國安平兵衛、下代には銀右衛門、抜荷押え方として提灯屋

栄蔵、覚蔵等の無頼漢をして領内を密行せしめたれば此等の者共は係り役人と結合し抜

荷する者を発見すれば其の者を追ひ落し没収して残らず役所へ指出すべきを三七分に分

配して為に家内も豊かに暮らし、同年の霜月頃よりは益々其の手に味を占め昼夜となく吟

味して遂には不意に侵入し箪笥長持まで検閲し五枚十枚の鼻紙まで押収し自が所得とす

れば農民益々忌悪し小提灯と綽名して恐れをなし全く高月両家の所業と認め屡々訴状を

提出すると雖も中間に抑留せられて下情更に通ぜず極月十八日に至り高野子村境目番

人夜を徹して農民一揆を注進に及ぶ。

吉田評定所に於ては評議容易に決せず郡代小島源太夫の提議に依って先ず山奥川筋押

えとして中見役鈴木作之進出で、三間音地へは代官岩下萬右衛門を、内深田へは平井多

右衛門を派遣し在目付江口圓左衛門は諸方見合せ申し付けられ夫々事情視察の上願書

受付、明春の沙汰を待つべき旨申聞け一先静観に帰しぬ。

翌る寛政五年正月政治始め若年寄戸田藤左衛門、鈴木彌次右衛門、用人近藤外記も賛

同し、安藤義太夫の矯正論は遂に行れず、百姓等は二月に至るも何の沙汰なきより激昂

し再び喧騒し、高月両家巻壊せと麻苧を以て大綱を作り諸神社諸山の守札を捻込み、長さ

四五尋として両端に輪と節を作り、須破と云ふ時には輪に節を入れて継ぎ延る用意をなし、

二月九日氏神の祠に此綱曳掛けて引き倒し願望成就の暁には速に建立すべく祈誓し、同

夜延川の戸祇ヶ森山上に高野子より延川まで八ヶ村の百姓屯集し、翌十日昼頃より鉄砲

を放ち法螺貝を吹き立て、鬨の声を上げて示威運動を開始し、近郷五六ヶ村の人数を待ち

合わせ宇和島領近永口に出で、茲より両道に分かれ食物を携へて行く行く人数を増せば、

村々の庄屋役人等は吉田に注進に及ぶ。

郡代横田茂右衛門等一揆の宇和島に出でゝは事益々面倒なりとて、急ぎ岩谷まで到れば

一揆の先手に遭ひ、諭すと雖も更に耳に入れず、先立つ者二三人を捕縛すれば、一揆

益々暴乱に及べば耐え堪て庄屋所に逃げ込みしも不堅固にして防ぐ能はず、間道より逃

れて出目(いずめ=地名)に走る。

一揆は奥野河原にて下筋の勢を待ち合わせ進行するに、吉田よりは役手の者並に大乗寺

を始め三間郷中の僧侶等、十日の夜九つ時立向ひ諭すと雖も更に通ぜず、手に松明振り

立て勢に乗じ役人等重傷を負ふて退く。

翌る十一日には近永村を打過ぐる時に、代官友岡栄治立ち向かひ制すれば、一揆の者共

は宇和島の役手なれば聊(いささか)も背く所なしとて山奥七ヶ村の重立つ者共より訴状を

提出に及べば豫て出張したる吟味役鹿村覚右衛門始め目付組頭庄屋等合議の上にて若

し此のまま吉田に通しては一大事なり左ればとて如何に説諭するとも所詮帰村すべしとも

思はれず、如かず一揆を城下に誘引して説諭を加ふるの良策ならむとし、重立つ者に向ひ

吉田に至り高月両家を巻壊したりとて何の功もなき上罪科は固より免れず、夫れよりは城

下に出で公明なる裁判を仰ぐの得策なるべし、と諭せば衆議いよいよ城下に出づる事に決

しぬ。

一方三間郷に出でたる先手は陽路陰路の二手に分れて行く程に大内村の酒屋某に人を

走らせ酒を求むれば、亭主答へて、僅の絞り酒屋の事なれど有る限りは饗ふるべし、と云

ふに、一揆は如何思ひけん通り過ぎ、夫れより三百余人元宗を通過すれば庄屋大右衛門

走り出でて止むれば大に罵って酒屋赤松を平げ宮の下まで押し行き、法華津屋の支店に

乱入し暫時に十五六石を呑み干し綱道具の類大切に預るべしとて庭に積み置き、務田迫

目に屯集し、吉田口浦、立間、喜佐方、法華津、上灘二十余村の人数を待ち合す。


此の時宮の下に桑名屋半兵衛とて酒屋ありしが、豫て用意やしたりけん多く飯を炊せ饗応

せむと慇懃に通すれば一揆此の家には恨みなしとて一飯に二分宛払ふて行過ぎたり。


宮の下白業寺の老僧は近村の僧侶と共に説諭したるが駕を田の中に投込まれ命からがら

逃帰るといふ。

かくして夥(おびだだ)しき一揆は十二日残らず城北八幡河原に押出し城南なる下三浦の

農民も佐伯町番所へ断り通行し合勢九千六百余人、十一日より降り出したる春雨に濡れ、

其の多くは河原に佇(たたずむ)で沙汰を待つこと凡そ二昼夜。殊に中途より加はりしもの

は食物の用意なく其の惨状漸く甚しければ、城下の酒造家長瀧四郎兵衛、伏見屋七右衛

門、法華津屋久助の三人の願により許可の上、粥を炊き満辺に與ふれば村壽は其の惨

状を聞かれ多くの苫(とま)を出し仮小屋を設けせしめ十六日帰村の時には夫々弁当料を

與へられたりといふ。

宇和島よりは伊藤五郎兵衛、城下組代官二宮和右衛門等、中間(注・なかいだ=村名)庄

屋中尾又助宅に於て一村より両三人づつ呼出し評定所の書面を以て申渡したる要は、今

度の出訴の趣は逐一承知に及ぶも、徒党強訴は禁制なれば一村より一両人づつ居残り、

其余は早々帰村して業に従ふべし、との事に何れも承知し此度願ひの趣意は何に依らず

上納一切城下へ取立てを願ひ度く追て願書差出すべきにより執達を願ふ旨陳述して退出

せしが、其後二回まで役人庄屋所に来り催促したるも一ヶ村にても揃はねば差出し難しと

て遅滞したり、


吉田に於ては役人の追々出張する中の尾田隼人は重役の故を以て飯淵の病中とて出張

せむとするを、父皈白(注・皈=帰の俗字)懇々注意する所あり、十三日早暁八幡河原に

到り下手の堤に佇み、若党を群衆の中に遣り八方運動し巨魁と覚しき者等に對ひ此の川

下の尾田老職あり願の筋あれば罷出ずべしと云へば、吉田の役人に用事あれば此処に

来るべきやはとて取り合はず、辛くも知行所の者両三人を伴ひ来れば尾田は其等に帰村

内談をなし凡同心十ヶ村にも及べば申出づべし、報償は望みに任すとの依頼に彼等は八

方奔走して、夕方までに既に十ヶ村余の同意を得て斯と内通すれば、尾田は此の由を櫻

田へ談合したるに、左様のあざとき事にては治る様なし、今は一人も帰す事ならずとて掌領せざりしと云ふ。

吉田に於ては御用塲(場)掛り岡伴右衛門、奥物頭兼小姓頭当分目付助役の越川勘平の

両人特志を以て大早飛脚となり二月十三日夜九ツ時出立して江戸に向かふ。


安藤義太夫大に心痛して深く覚悟する所あり、夫人と子息富太郎に他所ながら別杯を傾け

用意の挟箱には竊(ひそか)に白無垢を入れて乗物に入り出仕あり、

夫人は同役飯淵の娘にして恒川佐助の妹、三十七歳にして嫡子富太郎は十六歳なり、

若党は御持弓組渡邊卯太夫の倅千右衛門とて当年廿歳の實体者なりしといふ。

城下には吉田の有司伏見屋七右衛門方に控えたり、義太夫は十四日に出張し櫻田迄届

け置き、尾田隼人には持病の癪痛にて登城し難き旨返答し、千右衛門には覚悟を明かし、

其の健気にも承知するや満足の体にて下に白無垢を着し麻上下(裃)にて群衆の三四町

川下にて駕を据え、本道より三十間ばかり上北側の堤上に至れば、群衆敢て関せず口々

に罵る、中間の庄屋所には郡代徳弘弘人交代して詰め、竊に眺め居たりといふ。



義太夫は堤の下麦田の岸蔭に挟箱を置き、腰を下ろして待つ、若党は知行所大野村の農

夫二三人を伴ひ来れば義太夫は懇々と諭し、老職の責任に就ては一言の言訳なしとて大

に謝する所あり、農民を元の河原へ返し置き、伏見屋より持ち来れる弁当を却け、城中よ

り尾田の使者屡々なるを叮(丁)寧に会釈あって、只今登城すべしと使を返し置き櫻田監

物、尾田隼人宛二通の書状を認め、静に煙草四五服燻して肩衣はね差添を取り鼻紙にて

巻き遂に割腹すれば、千右衛門介錯し袱紗に包み黒塗内朱に金の定紋ある首桶に収め、

千右衛門殉死せむとするを、御貸手某に励されて斯と注進に及べば検視として大目付渡

邊平兵衛、物頭兼町奉行田原七左衛門医師を具して来り、死骸は其のまま病気と称して

吉田へ引き取って後二月十九日菩提寺海藏寺に葬る。

法名大節院顕翁道危居士、寛政五年二月十四日行年四十七歳なり。

越川、岡の両人は廿四日の暁大阪北濱大川町の邸に着き、届けの上直に出発して三月

四日江戸に到り、宇和島よりは十五日出の飛脚来り、越て十七日出の大早打に一揆退散

の由を報じたれば両人は三月十一日江戸を発足し四月朔日(ついたち)帰着したり、

十五日には宇和島より櫻田數馬、目付渡邊平兵衛は鯨船に乗って吉田に来り、殿中に於

て要路の人々を集め申達の次第もあれば暫時貴重書類を預り置くべしとの事に中老郷六

惠左衛門容易に渡さず、両士止むなく隠居尾田皈白を伴ひ同船して帰城し評議するところあり、
又宇和島の郡代は交代して中間村庄屋所に詰切し下役を以て屡々願書督促をなすも捗取

らず、鹿村覚右衛門は近永口に於て願書を出さむとしたる者二三人を呼出し、数千の人民

日を経るも去らず今以て願書を出さざるが故に裁許に及び難し、安藤の切腹如何に心得

るや、早々内談に及び返答すべしと懇諭すれば、やがて願ひの趣裁許を得、次第に帰村

すべき儀を取纏め山奥川筋を一団となし、三間郷を一団とし、吉田付近を一団として交渉

に及び十五日夕刻各団より総代を差立て、

一、上納米豆斗り方の事
一、庄屋野役の事
一、紙楮の事
一、材木出夫の事
一、御用紙の事
一、炭出夫の事
一、江戸へ進物の事
一、家中頼母子無尽の事
一、江戸夫地夫の事
一、酒禁盃の事
一、井川夫食の事 〆十一ヶ条 何れも口伝あり

右願書を調製して差出せば、鈴木忠右衛門之を受理し、直に徹夜評議の上翌十六日早

朝、大目付須藤弾右衛門、中間村庄屋中尾又助宅へ出張し、郡代徳弘弘人、須藤源右衛

門、城下組代官二宮和右衛門、郷中吟味役鹿村覚右衛門、城下組庄屋中並足軽五十

人、先ず河原上寄りの道側に整列し、吉田よりは若年寄郷六惠左衛門、郡代横田茂右衛

門、同小島源太夫、中見役鈴木作之進下役を随へて道の下脇に立ち列、其の前に吉田領

の庄屋を呼出し、農民一統列居させ、弘人は願書裁許の趣を述べ、鹿村之を読み上げ終

って吉田役人より相当の申渡しあり、

農民何れも順序を立て午の刻より申の刻迄に河原を引払ふ、


廿六日吉田郡所より各村へ廻文を以て布令あり。

一 米地払切四斗 但為登米は一升五合入
一 大豆銀納   但其年々宇和島へ相談の事

右願出の分は勿論其他二十三ヶ条免許の事

此の度の騒動に就いては吉田を取潰して宇和島へ徃旧の儀あり、櫻田數馬の重要書類

預りの事も其の前提と知られたるが此の事遂に沙汰止みぬ。

其の後は頭取の吟味も遠慮あって有耶無耶に葬らむとしたるが、茲に徒士に岡部二郎九

郎とて年久しく井川方を勤めし侍あり、翌年二月にもなりぬれば命を受けて山奥地方に井

川普請として出張したり、此の人万事に抜目なく 普請成就の日を待ち人夫等に酒を與へ

て大酔に至らしめ、自分も熟酔の体して聞き居たるに不圖(図)一揆頭取の話に及び端を

得て聞き出せば下大野の武左衛門、次に是房の善六等なりとの事に、岡部は何心なき体

して聞き取り其の趣評定所に達すれば、評議区々なりしも郷六惠左衛門の提議に依りて遂

に所罰する事に決定し、捕方人選の上十五日の暁何れも変装して山奥地方に入り込み

ぬ、折柄十五夜の事とて当時の頭取等集って酒宴する所へふみ込み捕縛に及び。

武左衛門は山奥境躑躅峠に於て斬罪梟首せられ、其他は永牢となりしが大節院十七回忌

に当る年大赦行はれ、翌る朝五ッ半時東口番所前にて各村庄屋役人親族共に引渡されたり。
安藤の屠腹は直接功なきが如きも混乱せる一揆に退散を速からしめたる一種の後動機を

付くりしは時に手段として時宜に適せるものと云ふべし、為に死後の崇敬漸く深く其の墳廟

は香花常に絶えずと云ふ。

説をなす者あり、継明は卯の年卯の月卯の日卯の刻を以て誕生あり、而も二月十四日に

生れて二月十四日に死し、六十一年目に当る嘉永六年二月十四日を以て始て発光ありしと云ふ、

此の事伊豫簾、安藤忠死録に詳し。

   
左から吉田町中にある安藤神社・宇和島市八幡神社横の碑・八幡河原


戻る

TOP


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送