吉田藩百姓一揆(武左衛門一揆)
(ぶざえもん一揆)

天明7年(1787)宮野下村(現三間町)の三嶋神社神主土居式部と宮野下町の樽屋與兵衛は困
窮する農民を救済するために、強訴を企て、それがために投獄された。当時は全国的に天明の大
飢饉とのちに云われる、大天災に見舞われていた。豊かな穀倉と云われる三間平野も、その例外
ではなかった。餓死者が多発する中、その惨状をみて、農民のために何か良い策はないものか、
無為無策な藩政を民の方向に目を向けさせる方法を考えていた式部、與兵衛は何者かの密告によ
り、とらわれの身となり、獄死した。この式部事件は、事前弾圧により大騒動にいたる事はなかっ
た。後世の調べにより、この事件に関与してとらわれた者は、式部、與兵衛の他にも勘右衛門、磯
七、萬助という者がいたそうである。

 式部事件は表面上は収まったかのように思われた。しかし、農民の困窮は改善された訳ではな
く、この事件は後世、武左衛門一揆と呼ばれる大規模な一揆のさきがけにすぎなかった。

 吉田藩が分知されたおり、当時では日本有数の漁場の一つ、宇和海と、鬼北地方の比較的豊饒
な土地を宇和島藩から譲り受けていた。しかし、天明・寛政期に入ると、農村は疲弊し、餓死者の相
次ぐ様相となり、藩財政自体も非常に厳しい状況になっていた。

 こうした状況下、寛政2年(1790)6代藩主村芳は16歳で家督相続をし、江戸詰の藩主に代わ
り、飯淵、尾田、松田等の家老たちが藩政をあずかっていた。藩がそのような状況のなかで、農村
では下級役人の不正が横行し、農民はますます苦しい生活を強いられていた。
 この頃、山奥、川筋の農民は、藩の政策で和紙の生産に取り組んでいた。しかし、その扱いは、
隣の宇和島藩とは大きく異なっていた。

 宇和島藩でも同じように、藩の政策として、農民に和紙の生産を奨励していたが、紙座をもうけ、
和紙を一括して取扱い、大坂蔵屋敷に送り、最も高い相場の時に売り、貸付金の利息と手数料を
差し引いて農民に支払うという、懇切な保護政策をしていたのに比べ、吉田藩では、御用商人に紙
の扱いを委託して、その為に農民には不利な様々な弊害が生じていた。

 例えば藩から委託されていた、法華津屋などは農民に高い利息の貸付金を出し、紙は安く叩いて
買い取るという状態で、ますます農民の生活は苦しくなるばかりであった。中には吉田領内で紙を売
ることをあきらめ、抜け荷して他所で紙をうる者も出てきた。

 これに対し、藩では紙座をもうけて抜け荷を厳重に取り締まり、抜け荷押さえの役人による監視を
厳重にした。このなかには無頼の徒も混じり、抜け荷改めと称して農家に押し入り、自家用の紙さえ
も取り上げる暴挙に出る者もいた。

 このような行為は紙だけに及ばず、上納米1俵に付き1升5合の含み米をとるとか、雨の日は上
納は出来ない、といって天気が晴れる日まで待たされ、余分な費用がかさんだり、大豆の値段は言
い値で売らなければならない、と云うような、まるで水戸黄門のテレビドラマに出てくるの極悪商人の
ような様であった。

武左衛門決起する
 上大野村(現・日吉村)の農民武左衛門は、農民の窮状を救うべく決意し、藩内の村々を密かに
廻り、同志を募った。
 武左衛門の運動は次第に効果を現せた。山奥を中心に不穏な空気が漂い、抜け荷押さえを行う
者の中には、農民に袋だたきにあい、命からがら逃げ出す者も出始めた。

 吉田藩ではこの状況がただならぬことを察知し、寛政4年(1792)12月15日郡奉行・中見・目付
を各地に派遣して、農民を集め

「願いの筋あれば申し出ること。聞き届けられるよう取りはからう。依って不穏な行動に及ばざるこ
と」

の内容を申し渡した。その結果農民側から出された17箇条の「改め方願書」に対し、

「願意は明春評議の上何分の沙汰あるべし」

と農民を説得し、ひとまずは平穏になった。

 翌寛政5年(1793)正月、この願書について評議が行われた。近年家老職に加わった安藤義太
夫継明は、農民の窮状を熟知しており、この機会に藩政を改革するために農民の主張に耳を傾け
ようと主張したが、長年にわたり賄賂を着服していた、藩の腐敗した老職たちは、逆にそういう安藤
に対し、即座に意見を退け、以下の結論に達した。すなわち

「一、法華津屋(高月両家)の資金貸し付け、製紙買入れは罪科とはならない」
「一、紙座役人の処置は職務を忠実に行ったので強いて咎むべきではない」
「一、百姓は是迄長く税を負担して来たのであるから、今日に至って耐えられぬ道理はない」

 という現在では考えられない結論に達した。(現在でも同じような事はあるか)
そうして、

「願の筋相立たず、万事従前の通りと心得べし」

と通達した。

 この通達に、忍耐していた農民の怒りは爆発した。
 寛政5年(1793)2月9日延川村戸祇の山頂より朝靄の中からホラ貝の音が鳴り響いた。これを
合図に高野子から延川までの八ケ村の農民が続々と集まった。特にこれまでの恨み重なる法華津
屋(高月両家)を打ち壊さんと、五ひろ巾の麻苧(あさお)の中に神社の護符、女性の髪の毛を綯い
こんだ大縄を携え鬨(とき)の声を上げて集結した。翌10日には昼頃より鉄砲なども加えて、小倉村
(現・鬼北町)まで進んだ。

 一揆に加わらないと、家を焼くと脅したので、その思いに賛同するも否もなく、あり合わせの食物、
鋤、鎌など思い思いの農具を手に、筵旗を立ててこれに加わった。
 一行が岩谷村に達したとき、急報を聞いて駆けつけた吉田藩の郡代家老横田茂右衛門らがこれ
をとどめ、説得に当たったが、手が付けられる状態ではなく、横田たちは命からがら逃げ帰った。

 一行は出目(いずめ)村(現・鬼北町)で下川筋吉野、蕨生(現・松野町)方面からの仲間を待って
いる間に吉田大乗寺をはじめとした、三間郷中の僧侶が郡代家老平井多右衛門とともに説得に来
たが、これも追い返した。

 本隊が近永村に達したとき、宇和島藩吟味役鹿村覚右衛門が出張してきた、

 「吉田に出て、高月両家を破壊しても何の得る処とはならぬ、それより宇和島に出て、汝らの願い
の筋を述べ、宗家(宇和島藩)にすがって、公明な裁判を受けるのが得策であろう」

と言って説得したために、これに従い、千馬ケ峠(現在の水分峠〔みずわかれ〕)を越えて宇和島に
向かうことになった。

 一方、三間郷に向かった先発隊は本隊より先に、行き先変更の報が入り、三間の宮野下に着く
と、用意していた麻縄は用がないとして、三嶋神社に置き、三間勢と気勢を上げている処に、吉田、
喜佐方、立間、法華津方面二十余カ所の村から参集した仲間と合流し、窓ノ峠より道を光満谷に取
り12日、宇和島領内中間村、八幡河原に到着し、先着の本隊と合流した。その数実に9600余人
に及んだという。

 宇和島藩からは役人伊藤五郎兵衛、代官二宮和右衛門が応対にあたり、

「多数徒党を組んでの強訴は禁制あるから、各村々より代表1〜2名を残し、他は速やかに帰村して
家業に励むように」

と説得したので、一同も承服し、

「今後上納一切宇和島で取り立てられたい」
旨を請い、書面で願いを出すことになったが、容易に意見がまとまらない。

 一方吉田藩では13日早朝家老尾田隼人が来て、若党を使わし

「尾田老職川下にあり、願の筋あらば申し出よ」

と伝えさせたが。

「吉田の役人に用あればなんぞ此処に来るべきや」と、吉田側の言葉には全く耳も貸さなかった。

◆安藤切腹
 明けて14日、家老安藤義太夫継明が出張し、若党千右衛門をしておもだつ者を呼び出し、

「昨年の嘆願が今日に及ぶも裁定なきは、やむを得ざる事情によるもの。我老職に席を連ねながら
事を執り行う能わず、この騒擾を惹起したるは悉く吾が不徳の致す所、上下に対し一言も申訳なき
次第なり。汝等上を恨む事なく即刻願書を差し出し裁断を得て家に帰り農事に精励せよ」

と説得したが、これが聞き入れられず、ついには予め覚悟の用意であったのか、河原を見下ろす堤
で、白無垢の小袖を着し挟箱より取り出した麻裃(かみしも)に着替えて、心静かに切腹をした。
 付いて来た若党は、主人の介錯をしたあと、首を用意していた首桶に収めた後、自らも殉死しよう
としたが、事を知って駆けつけた宇和島藩士に制せられ、勧めにしたがって、事の子細を吉田に急
報した。
 これまで、騒いでいた農民達は、この事態を知り、すべての責を負って自ら命を絶った安藤義太
夫の崇高な精神に心を打たれ、声もなかったという。

 しばらくは八幡河原を立ち去ることがなかった農民も、宇和島藩吟味役鹿村覚右衛門の

「汝等多数の者が屯集して、数日に及び、両藩の苦慮一方でない。殊に安藤の切腹は汝等もよく知
るところである。君公も憂慮されて一日も早く裁断せんと欲せらるるも、願書を差し出さざるに依って
は如何ともなし難い。屯集がこれ以上長きに亘れば他藩への聞こえもあり、藩の権威を損じ、果は
公儀に対しても恐れ入る次第である。宜しく願の趣を差し出し速やかに退散せよ」

 と示達したので、一同了承し、同日夕刻

一、上納米、豆計り方の事
一、紙、楮(こうぞ)の事
一、御用紙の事
一、江戸への進物の事
一、江戸夫、地夫の事
一、井川夫良の事
一、庄屋野役の事
一、材木出夫の事
一、炭出夫の事
一、家中頼母子無尽の事
一、酒禁盃の事
 以上11カ条を記した願書を鈴木忠右衛門が受理し、藩では直ちに夜を徹して評議を重ねた。

 翌16日早朝大目付須藤段右衛門は裁許書を携え、郡代以下を引き連れて八幡河原上寄りの道
に整列。吉田よりは若年寄り郷六恵左衛門、郡代横田茂右衛門、中見役等下役を従え道の下脇に
立ち、農民の代表を列居させ、宇和島藩鹿村右衛門裁許書を読み上げ、吉田役人よりも申し渡し
があった。

 これに依れば農民の願い出た11カ条はほとんど聞き入れられた。更に特記すべきは、農民が要
求した11項目以外に、その後各村に出された申し渡しによれば新たに農民が日頃より困っていた
問題について12条項の項目が付加され、合わせて23カ条の項目が改善されていることである。

付加項目は長いので省略

■後日談
 一揆が発生した翌年の寛政6年2月、吉田藩士岡部二郎九郎は山奥の井川普請に出役を命ぜら
れた際、ふとした事から、一揆の首謀者が上大野の武左衛門であることを知る。これにより2月15
日武左衛門はじめ一揆を企てた主な者は召し捕られ、武左衛門は死罪となった。

 この一揆を企てた、武左衛門の責任については、当初吉田、宇和島両藩の話し合いで、不問にす
ると言うことが内々決められていたようであるが、それを裏付ける公式な文書類は未発見である。し
かし、強訴を企てたものに対する処置については、通常要望書の中に含まれているはずなのだが、
これが最初からない事が不思議である。武左衛門は当初から死を覚悟していたために、あえて、自
らの命乞いをしなかったのであろうか。

 また、本来の交渉相手であるはずの吉田藩の領内を目指す途中、本家宇和島に交渉を頼むこと
で、この一揆は政治的な勝利を得たのであるが、これが宇和島の八幡河原ではなく、直接吉田の
町に向かっていたらどのような結果になっていたのであろうか。
 おそらく類を見ない騒乱状態になり、吉田藩の存在そのものが危機的状況になっていたであろう。

 単純に考えれば、義農武左衛門と忠臣安藤義太夫継明の二人が、それぞれの命をかけて、方や
農民の生活のために正義を貫き、一方では、無能で腐敗堕落した藩政を守るために「もののふ」の
道を歩んだ訳である。
 これに対する宇和島藩の対応も鋭いものがある。この事件で宇和島藩のヘゲモニーは絶対的で
あった。吉田藩に比べれば、悪徳商人の横暴で困る農民は少なく、宇和島藩に一揆が飛び火する
恐れは少なかったと思われる。対応策を練った場所も参考書には書かれていないが聞くところで
は、宇和島藩内であったという。

 一説によれば、吉田藩に対する宇和島藩の発言力を強めるために、宇和島藩内に一揆の農民を
呼び込み、かなりの便宜を図ったと言われているが、そうであれば、そのまま農民を吉田に入れ
て、騒動を拡大させることで、吉田藩をつぶし宇和島藩に吸収する事も可能ではなかったのではな
いか。

 かつて大きな騒動があったとは思えない、今はのどかな八幡河原である。
 吉田藩家老安藤義太夫継明は、今、吉田町内の中心地に「安藤様」として神社に祭られている。
日吉村には、大正年間に武左衛門顕彰碑が建立されている。
 四国で最初のメーデーが行われたのは、この日吉の地であった。武左衛門の血が脈々と流れて
いるのであろうか。

 複雑な政治的背景は不明にしても、我々の住む宇和島の近くに、生まれ育ちは両極端ながら、男
の花道を歩んだ二人の人間がいたことを忘れてはならない。

もう少しくわしく、古文調で読む


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