赤染様(あかぞめさま)の謎・其の弐

 私が赤染め様を知ったのはかなり昔のことである。名前から平安時代の女流歌人、赤染右衛門を祀っているものだとばかり思っていた。学問を追究する人が祀ったものだとばかり思っていた。ところがある時「K」氏から非常に歴史の古いものであると御教示いただいた。

【赤染衛門=あかぞめえもん、平安時代中期の女流歌人。大江匡房の曾祖母にあたる。和泉式部とならんで歌に優れ、穏健な和歌で有名。三十六歌仙の一人。作品として「赤染衛門集」がある。】

ただ、前のページにも書いたが、この場所は市街地のそばなのに、非常に薄気味悪いところである。あれこれ調べるうち、伊吹町のS氏から思わぬ情報を聞き込んだ。お教えに従って調べていたら、今まで思いこんでいたことが大きな間違いであることに気がついた。少し長くなるが、真偽のほどは別として久保盛丸氏の書かれた「南豫史」から引用する。

【衛門墓】(えもんばか)
衛門墓は下村天満山の北麓「臥雲谷」にあり。臥雲寺の遺蹟(ママ)にて臥雲谷は和鬼谷の転訛なりと。(管理人注=「がうん」なんで「わきや」の転化なのかは全く不明)が杉樹繁茂せる内に方一間の小祠あり、其の中に一基の卯塔建てり、世俗赤染衛門の祠と称し、霊験顕著なりとて賽する者多く一種神秘的の信仰を有す。
新田神社は天満山の南麓乃ち衛門墓の背面丸穂村畑枝に鎮座あり。新田義貞の三子義宗と脇屋義助の子義治を祭り、今は廃されて県社宇和津彦神社の境内に合祀せらる。

衛門墓は則ち脇屋衛門佐(すけ)義治の墳墓にして新田谷の旧新田神社前古新田と称する地の田畦に今もなほ耕されずして一座の古塚あり、或いは義宗の古墳には非らざるか。和鬼谷は之を訓ずれば脇屋にして新田神社は其の鎮座する所なり。衛門墓の記に(井上保穐誌)………中略……
谷ふかき杉生のをくにしら雪のふりにし人の後ぞのこれる。
かく口詠ひければ友人もかくなん
苔ふかき谷の杉生にいにしへのしるしばかりぞなほのこりける

諸共にたちかへらんとするに里人きたりてこの所になんむかしは寺ありて臥雲寺といふめるよし聞きて、とりあへず
 いにしへの名のみ残れどその寺の礎さへもなき世なりけり
かかることども云出つつ帰る道すがら、いかでかかる所になんしるしはありけむやと、友人のいふめればつく杖につくづくかうがえ侍(はべ)るに四の国までわたり侍りしこと、古き草紙にも見えざめれば此国をおさめたりし西園寺あるは天正のころ、藤堂富田の某などにつかへ侍る武士のうちに赤染のこそめの糸のたえぬゆかりある。しみてありてその人のきつき所侍るにかあらんよて古き里の翁の云伝ふるなんいぶかしと云い侍るに、正職となんいふ人、わがまつり奉る新田の宮はこの谷のあなたにしで、むかし新田の一族おちふれ給ひてこの所にかくれおわしましつつ、終に身まかり給ふを祝ひ奉ることなど思へば脇屋右衛門佐とて義貞公の甥にして新田の神と共に此国に住給ひて、この所むなしくなり給ふよし侍れば衛門の名を云つたへるにかあらんといふ、これによりておもへば定家卿の小ぐら百首を里遠き山かつまでも口すさひおほして赤染衛門などいひならひたるくせとして、衛門ととなふれば脇屋右衛門の佐のしるしとそしられ侍る。時は天明四のとし霜ふる月末の一日のことなり。

後太平記人部巻に
其比新田武蔵守少将義宗、脇屋右衛門佐義治は出羽国羽黒山の麓に柴の扉と挑け深く蟄れて衰老の霜降る眉を顰(しか)めて坐しけるが天未だ時を逸し給はざれば徒に軍慮の枕傾き遺恨の鉾空く横り謀慮既に尽ける儘にける処に南帝北方御和睦坐し嵯峨へ遷幸在て三種の神器を渡されたり恪と聞かれしかば新田の一族驚き玉ひ泪を流され、さても無念の事どもかな苟(いやしく)も我普天の下に生まれ王土に身をよせ勅命離遁して一命を忠烈の上に抛(なげうっ)て我々家義を全し国を捨て家を滅する事皆南帝の論言重きが故なり、今礑南北御和平の上は一族忠にも義にも捨てたれば猛虎山を失ひ、萬星離天流行に異らず、今は出家遁世の身共なり、義貞、義興の亡魂尊霊の憤りをも可弔と思ひ極め玉へども凡武士の習に義を萬代に留る事は難く、身命を一時に捨てる事は易し、暫く世上の安否をも候ひ忍ばせ玉はば、若しや素懐の幡開くる時もや候はんと皆一言に諫めしかば、さらば自是四国の方へ忍び行き、土居得能村上と一手にならんとて、明れば正月二十一日の夜に紛れ出羽の羽黒を立出で玉ふ。女性小き人々も長き別れとなげき玉へば、流石別れの痛はしさに皆忍びやかに伴ひ玉ひ、煙霞遙の旅路の空雲井に掛けて捨たれ身は夢路を辿る御心地にて信濃路を経て伊勢の国に着き玉ひ、爰(ここ)にて暫く旅の疲れを休め玉ふ。是より和泉の堺に打越え各々船に取乗て四国をさして落ち玉ふ。此人々元弘の終りには富貴栄耀の門に立栄花の春を楽み玉へども世の転変夢中に来て今一業所感の浪の上、浮沈の御歎き痛しかりし事どもなり。………中略………順風帆に打て伊予の国大島し着き玉ふ。是より土居得能河野が許へ使を被立ければ急ぎ宇和島に移しまゐらせける。一族皆浅間なる柴の庵を結び幽閉閑疎の御住居にて歳月を送り玉ひしかば墻壁苔むし蘿(つた)草煙を籠め夜の月朦朧たり。松吹き戦ぐ峯の風旦暮蕭颯して冷然く竹の編戸の時雨の音誰ぞやと答ふる計りにて言とふ人もなければ是は如何なる宿業にて斯は憂き目に逢ふぞやと悲歎の泪つくる間もなく恨を天に憤り深く蟄して坐しける御心の中こそ哀れなり。

また、豫陽盛衰記の十二巻にも遁れて宇和島に住みし事を詳しく載せたり。
又。河野家譜には宇和郡に終わると特記せられたり、
伊予の国由来両将の終焉の地と称する所甚だ多し、上浮穴郡中田渡村新田神社の旧記に依れば宇和島へ移り両年住み、其後来って義宗夫妻逝去の地とせり、宇摩郡下山村字新田と称する地に新田神社あり、其の社記には義宗逝去の地となし、義治は讃州大内郡に匿れ其処に終わるとあり、或いは得能氏家記には明徳元年正月義宗は桑村郡河内村に終り、義治は湯山に逝くと載せられたり、又、伊予郡大平村四ツ松に新田神社とて脇屋を祀れるあり、社記に建徳元年六月十三日当村に於て痢病のため逝去す、時に四十五歳、死に臨みて弓矢を流し甲冑を埋む、故に甲谷、冑谷、籠手谷、弓矢ヶ淵等の名残れりとあり、又、温泉郡湯山村にも遺跡あり芳闕嵐史に詳し。以上其逝去地と称する所甚多し、著者(久保氏)は右の諸説を悉く打破し全然我が宇和島の衛門墓および古新田の古墳を両公逝去の地なりと断言するものには非ずと謂うも、なほ旗幟を翻して堂々論陣を張るに難たからずと信ずるなり………略………(ここでは久保氏は伊豫温故録の説を理論立てて批判しているが長いので略)

伊豫温故録の乱暴なる断定驚くに堪へたり、先ず彼は衛門墓及新田神社の存在を知らざりしなり、然して両将各居場所を異にして殊更不便を敢えてするの愚は信ぜらるなり、殊に両将憂患流寓の折りから分離して勢を薄弱ならしめ談合に不自由を醸すが事あるなし、必ずや行を共にし居住を接近したるは疑ひなく、彼が貧弱なる唯一の論法は危険尠(すくな)き僻遠の地を以てせり、然ば上浮穴、伊豫両郡よりも更に更に僻遠なる宇和郡の殊に南に辺したる人情温雅なる宇和島に隠遁するを最善の論法たらしめべからざる、然も僅々二人の終焉地が斯くも多数なる筈はなく、何れも我田引水の遺跡及び記録を設けて誇りしものを早計にも都合のよろしき両地(義治の死地は伊予郡大平、義宗は温泉郡湯山村)を採って軽々しく断定するは大に非なり。殊に衛門墓及古新田の古墳には一種神秘的信仰を有せり。

著者(久保氏)が伊豫の古墳を巡錫して各新田遺跡の実地研究を以てするも衛門墓の如き信仰を見ざるなり、更に見ずや河野家譜の宇和郡に終わると明記せるを。

長い引用になったが、要約すれば、赤染様は新田義貞の甥脇屋衛門佐義治の墓ではないだろうかということである。聞いた話では戦前には参拝する人が多く、境内は賑わっていたとか、絵馬などが納められていたらしい。また、上記の文中にあるごとく、山の南側には新田様と呼ばれる古墳が畑の中に存在していたらしい。丸穂の河野さんという方に話を伺ったが、その方も実際のものは覚えていられないが、言い伝えでそういうものが畑に中にあり、そこは耕作物はうえていなかったそうである。

新田伝説は日本各地に存在するが、明治以降か、建武の中興の英雄を各地で祀るようになったことも、混乱の一つになったのではないだろうか。

ここが絶対にそうであるということの確証は何一つ残されていない。すべてが伝承にすぎない。しかし、久保氏が述べているように、脇屋氏と新田氏がばらばらに暮らすよりは、主従共に近くで暮らすことの方が説得力があるだろう。

ただ、何度も述べるがこれはあくまでも伝承であり、江戸時代の伊達家の文書には衛門墓についての記述は今の所見つかっていない。源義経が蝦夷地に渡り、やがてはジンギスカンになったという伝説と同じようなものなのだろうか。それにしても、赤染衛門の名が付けられたことについては、説明はあるが納得のいかない部分も多々ある。

この場所から南に越えると、昔新田様が在ったと言われる場所があるが、今ではバイパスのトンネルが出来、道路が通り、本来の場所から移されてしまった。新田様のあったと言われる所は、南向きの日当たりの良いところである。

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