高知県高岡郡梼原町・維新の門

   

平成7年11月11日建立・題字は高知県知事・橋本大二郎

この梼原の地は土佐の山奥ながら、幕末の志士を輩出した町である。


最初、この像を見たときには驚いた。従来の銅像はだいたい直立タイプ
であるが、ここでは、中央の掛橋和泉を挟んで向かって右は静、左は動
と対称的に作られている。とりわけ左中央の中平龍之介の今にも刀を
抜かんとする迫力は大したものである。バランス的な問題なのか、足の
支えが人工的なものが残念だ。出来ればこれも石で作って欲しかった。

たかが銅像とバカにするなかれ、一度本物を見るとその気迫に圧倒される.

那須俊平(1807〜1864)

坂本龍馬(1835〜1867)

梼原村に生まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。特に槍術に長じ「土佐一の槍の達人」と称された。文久二年四月、養子の信吾は藩佐幕派の吉田東洋を斬って脱藩した。俊平も元治元年脱藩。長州の忠勇隊に入った同年、五十八歳の身で禁門の変に参加し、奮戦の末戦死した。 ご存じ坂本龍馬。高知の郷士坂本八平、妻幸の二男として生まれる。武市瑞山と交わり勤王党に血盟加入。文久二年春同士澤村惣之丞と脱藩、勝海舟らに啓発される。薩長同盟の締結、大政奉還など維新の指導者として活躍したが、慶応三年十一月十五日、盟友中岡慎太郎とともに京都近江屋で凶刃に倒れた。

澤村惣之丞(1848〜1868)

掛橋和泉(1835〜1862)

高知潮江村地下浪人の家に生まれる。文久二年春、坂本龍馬とともに脱藩。勝海舟の神戸海軍塾に学び、亀山社中に加わって坂本龍馬の片腕となって活躍した。慶応四年一月幕府軍の敗退を知って長崎奉行は退散した。その奉行所を占拠して市中の治安維持に当たっているとき、薩摩藩士を誤殺。「この大事の時に薩摩と土佐の間に溝を生じてはならない」と従容として自決した。 梼原村那須常吉、妻歌の二男として生まれ、同村神職掛橋家へ養子として入った。すぐ隣の庄屋吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を固めた。文久二年春、同士が相次いで脱藩。家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。これが養母の知るところとなり、この詰責を受け、同士に類の及ぶ事を恐れ、自決した。

中平龍之介(1842〜1864)
吉村虎太郎(1837〜1863)

梼原村地下浪人中平佐平、妻登根の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、同士と気脈を通じ勤王の志を篤くする。文久三年脱藩。長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦。激闘の末重傷を負い自決した。 芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として生まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政六年梼原村番人大庄屋として赴任した。武市瑞山らと勤王党を結成。文久二年脱藩して京に上る。一時捕らえられ牢舎に呻吟する身となったが、出所後再び京に上り、翌三年天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。しかし8.18の政変で孤立無援となり、奈良県鷲家谷にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅、虎太郎も壮烈な戦死を遂げた。

那須信吾(1829〜1864)

前田繁馬(1835〜1863)

佐川村浜田宅左衛門、妻悦の第三子として生まれる。梼原村郷士那須俊平の養子となりその娘為代と結婚。文久二年四月土佐藩佐幕派の吉田東洋を斬り、その足で脱藩し京都に潜伏した。翌三年、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵するも幕軍に阻まれ壊滅。奈良県鷲家口で戦死した。 松原村庄屋前田広作の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、吉村虎太郎、那須信吾らと交わって勤王の志を固めた。文久三年吉村虎太郎の挙兵を知り脱藩。天誅組に入って大和に進撃したが、政変によって隊は壊滅。奈良県初瀬で戦死した

説明文は梼原町の観光パンフレットから(鷲屋口と鷲屋谷と二つ書かれているがそのまま引用)

  

この迫力を是非ご覧あれ。

ただし、残念ながら宇和島からは直通の交通機関がない
ので、自家用車かレンタカーで約1時間あまり。昔に比べて
道は驚くほど良くなった。スピードの出しすぎに注意。

天誅組について

土佐勤王四天王関係

坂本龍馬脱藩の道

武市半平太生家

土佐勤王党
中岡慎太郎生家


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