牛鬼の私的考察


牛鬼は宇和島地方に伝わる祭りの出し物の一つであるが、もう一つこの地方に伝えられている祭りの踊り「八ッ鹿(あるいは五ツ鹿、六ツ鹿)」とは多少異なった分布が見られる。
八ッ鹿はそのルーツは東北地方の鹿踊りにあると言われている。これに関しては流れ、分布形態、踊りのスタイルなどを見ても、文献などの証拠はなくとも、伝承されている話からほぼ、そう特定してもおかしくはないだろう。(本来は五つ鹿が原型であったらしい。)

ところが牛鬼に関しては確かなルーツは不明である。牛鬼の文字は「枕草子」に「いと恐ろしきもの……」と書かれているのが最初に出てくる。これが宇和島地方の祭礼に出るものと同じものを指して居るのかも不明である。
一般に伝えられている話として、秀吉が朝鮮半島に攻め入った時、敵を脅すために作られた、と言う話があるが、これも確証はない。

牛鬼の分布を調べると、現在も祭りに使われている、あるいはかって祭りに使われていた(▼印)、と残って居るのは以下の地区である。
菊間町(松山藩領)、
▼久万町(松山藩領)、
▼柳谷村(松山藩領)、
▼美川村(松山藩領)、
▼長浜町(大洲藩領→新谷藩領)、
小田町(大洲藩領)、
内子町(大洲藩領)、
五十崎町(大洲藩領、一部新谷藩領)、
肱川町(大洲藩領、宇和島藩領、一部新谷藩領)、
川辺村(大洲藩領→新谷藩領)、

以下は宇和島藩領、あるいは宇和島藩領から吉田藩領になったところ
三崎町、瀬戸町、保内町、八幡浜市、三瓶町、明浜町、宇和町、野村町、城川町、日吉村、
広見町、松野町、吉田町、三間町、津島町、内海村、御荘町、城辺町、一本松町。

高知県宿毛市沖の島(宇和島藩領)
高知県十和村(土佐藩領)、高知県梼原町(土佐藩)、高知県西土佐村(土佐藩)、高知県大正町(土佐藩)

(私が確認した時点では後継者不足、伝承の途絶えなどで現在は無いという返事を得たが、▼のなかでも現在復活している地区があるかもしれない)

この中で南予地方、旧宇和島藩領内ではほとんどの町で牛鬼が見られるが、それ以外ではその町の一部の地区でのみ行われている(あるいはいた)ようである。面白いことに現大洲市では全くないということである。また、長浜町では宇和島に近い地区で残っているらしい。柳谷村、久万町では一部の地区に伝わっていたが、現在では見られないようである。
高知県梼原町では、神社の記録では江戸時代後期に「ごしんこう」と供に宇和島から伝わったということである。西土佐村、十和村、大正町の四万十川流域も宇和島から伝わったと言われている。四万十川流域も大正町の一部が一番遠くで、窪川町には見られないようである。
これらを考えると、牛鬼と宇和島藩とは何らかのつながりが考えられてもおかしくはない。菊間町に関して言えば、神社でも記録がなく全く不明であるらしいが、菊間町の特産品菊間瓦のなかでも「鬼瓦」との関係を考えればそのあたりでつながっているのではないかと思われる。

さて、ルーツに話をもどすと、軍事的利用法という話が根強いと書いたが、私はそれに関しては、否定的な考えである。祭礼行事の延長にあるのではないだろうか。もともと現在の宇和島に見られる一般的な牛鬼のスタイルは、後世造られたものではなかろうか。
小田町、三崎町あたりの牛鬼はずんぐりした胴体に頭は鬼と言うよりは獅子舞の頭に近い。これは宇和島市内の神社に残されている、古い頭をそのまま伝えている。それから考えれば、相手を威嚇するものではないように思われる。

例えばかっては軍事的要素が強かった城郭が、政権の安定した江戸時代中期からは、権威の象徴としての存在になり、軍治的要素も取り込みながらも、むしろ政治的存在としての城を強調し、スタイル、外観を重要視するようになった。

牛鬼もそれに従うなら、威容さ、畏怖感を与えながら、そのスタイルに洗練されたものを考えて行く間に、現在宇和島市内各所で見られるものになったのではないだろうか。

材料は、竹で編んだ胴体に主にシュロ、あるいは赤い布を掛けたものが多いが、地域によっては黒い布で覆われているものもある。大きさも何十人も担がなければいけない巨大なものから、大人十数人で充分の小さいものまである。これも威勢の誇示をするために変化してきたのであろう。

少なくとも今見ているものが、昔からそのままの形で伝わってきている、と考える事は大きな危険を冒すことになる。

軍事的に利用された事を消極的に否定するのは、どのような文献にも全くそれに関して記載が見られないこと。(記載がないから否定するという訳ではないが)
鉄砲が我が国に伝来してから、戦争はその性格を変えてきた。あらゆる大名は鉄砲を手に入れることでその軍事的強化を図ってきた。牛鬼が軍事的に利用されたのであれば、その効果によって、諸大名はそれらを発展させた筈である。それが一切見られないと言うことも、軍事的利用の消極的否定の一因でもある。

ただし、これが一度だけの成功例というのであれば、例えば、ホメロスの叙事詩にでてきて、ずっと後にシューリマンが発掘した「トロイの木馬」のように、あながち朝鮮出兵のさい使用された、と言う話もまんざら否定は出来ないが、通常功名を残す諸軍記に全く記述が見られないことは、それが空想に過ぎないことを物語っているのではないだろうか。

私が妙に引っかかるのが、五ツ鹿、八ッ鹿などの宇和島発祥の踊りが残っている大洲市に、牛鬼が全く見られないということである。旧大洲領内では各地に残っているものの、どういう理由か現大洲市に見られないと言うことは、なにかの理由があっての事なのだろうか。昔から大洲と八幡浜はあまり仲がよろしくないと伺っているが、それとは無関係なのだろう。

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牛鬼のいる風景

その1

その2

その3

その4

その5

その6


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