宇和島町が市制施行をするためには、八幡村との合併が必要不可欠であった。これは非常に困難を極めた交渉であった。
旧藩制時代には「柿原村」「中間村」「下村」「藤江浦」「大浦」の三つの村と二つの浦に分かれていた。明治21年新たな自治制に移行するに先立ち、この地区が一村にまとめられ 「八幡村」となった。
村制施行後の八幡村は、その立地条件から宇和島町と肩を並べる新たな商工業地帯として発展した藤江・下村・中間の地区と、農漁村地帯としての柿原・大浦地区の発展で新進の勢いがあった。特に村域内に物資輸送の港として樺崎港と持つ、地の利を生かして、旧城下町何するものぞ、という振興の意気に燃え、人口、事業所の数が増加する傾向にあった。
簡単に当時の両町村の比較を述べてみる
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就学児童数(9) |
3、311名 |
1、040名 |
飲食店数(10) |
39軒 |
35軒 |
料理店数(10) |
42軒 |
84軒 |
旅館数(10) |
64軒 |
53軒 |
年間宿泊人員(9) |
19、133名 |
14、954名 |
総生産額統計(9) |
6、479、348円 |
5、207、853円 |
戸数(9) |
4556戸 |
2050戸 |
人口(9) |
20、753人 |
10、370人 |
ちなみに当時の総生産額の推移を見てみると
年度\区分 |
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2、963、245円 |
1、890、077円 |
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3、704、069円 |
3、551、907円 |
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5、100、211円 |
5、315、175円 |
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7、266、799円 |
8、073、704円 |
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6、479、348円 |
5、207、853円 |
これらの数字を見る限り、八幡村はあえて宇和島町と合併をしなければならないという、必然性は見られなかった。「山村豊次郎伝」 によれば 『八幡村としては恵まれた地勢にあって、いわば宇和島町盛衰の鍵を握っている観があったのでこの問題には鼻息が荒く、合併問題に対しては極めて静観的で、簡単には町側の要求に応ずる気配はなかった』
また、八幡村は振興商工業地として旧城下宇和島町と肩を並べる生産額をあげ、特に工産物における綿布(広巾物)及び酒類は宇和島町よりも優位の生産価額を示し、生絲もまたほとんど同額にちかい実績をあげ工産物総額では大幅に宇和島町を上回る生産額を保持していた。
しかも、市街地拡張計画事業により、八幡村地域には転入人口の増加を呈し、新開地の発展は歓楽街の繁栄を招く結果となり、外来者を迎える飲食店・料理屋・旅館などは宇和島町を凌ぐ勢いとなってきた。
このような、環境のもと、八幡村は、あえて宇和島町との合併を臨む雰囲気はなく、むしろ単独で町制移行をのぞむ傾向さえ出てきた。(大正9年8月16日の村議会で 「大正9年11月より町制施行の件」 可決)。
宇和島町との合併を視野に入れながら、一方で単独町制の両面作戦に立っていた。
ただ一つ、八幡村が抱えていた大きな問題があった。それは、風俗営業に関して、規模はともかくとして村に、多くの風俗営業があったことである。時の新任警察署長が巡視来宇の際、「農村に対する風俗取り締まりの上から農村芸妓なるものは一切禁止する方針である」旨の発言をした。
このように、先行き混沌とした状況のなかで、穂積陳重博士は、郷土の将来に大きな感心を持たれていた。博士の要請があり、八幡村から代表七名が上京し、穂積邸を訪れた。
博士は温顔に微笑をたたえて、大局的な観点から地域発展のために、是非とも市制施行の必要性を説明し、そのためにも八幡村の合併が行わなければその条件が整わず、さらに将来の発展的大事業が実行出来ないことを、じゅんじゅんと説かれた、という。この博士の誠意ある説得が訪問者の心を動かし、上京団の心を深く打ち、八幡村の形勢にも大きな変化を与えた。
ある本の記述には、博士とお会いするまで、反対を唱えて息巻いていた上京団のメンバーは帰りの船の中では、行くまでとはうってかわって、是非とも合併をすべきだと、意気盛んに語り合ったという。
この結果、宇和島市制施行が順調に進行した。そうして念願の上水道事業、須賀川付け替え工事、宇和島港の浚渫などの大事業ができる下地が形成されたのである。
小さな枠にとらわれず、地域全体の発展のために尽くした、宇和島町、八幡村の理事者、住民、そしてそのために尽力を尽くされた、穂積博士の努力の結晶が、今日の宇和島の基礎となった、と考えても過大な評価ではないであろう。
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