忠臣・山家清兵衛と宇和島・和霊騒動
(やんべ・せいべい)

 元和元年(1615)この地に入部した東北の雄、伊達政宗の長男秀宗は、父より贈られた「57騎」
と云われる士を中心に家臣団を編成した。高禄の家臣が多かったが地元からの、登用はまれであ
った。伊達家入部とともに、八ッ鹿踊りなど東北文化が流入して、地元民衆に歓迎され、この地域一
帯に伝播していった。山家清兵衛公頼は長男・喜兵衛に仙台山家の家を継がせ、自身は二男以下
家族を連れて、生まれ故郷を遙か離れたこの伊予の地に赴任した。
当地の八ッ鹿踊りは、勇壮な東北地方の踊りに比べ、可憐で哀愁を帯びた踊りに変化し、その数も
所によっては、五ッ鹿となったり、衣装も様々に変わっているが、秋祭りには南予各地でその舞が見
られる。

 秀宗は大名家創立にあたり、父政宗から6万両の借用をもってしたため、その返済のために、政
宗隠居料と称して3万石分を割り引かねばならなかった。実質7万石で10万石格式の宇和島藩が
出発する事となった。これは寛永12年(1635)まで続き、藩の財政を圧迫する原因となった。

 初期の家老で政宗より信頼を受け秀宗入部いらい、その財政対策に苦慮していた山家清兵衛公
頼(やんべせいべい・きんより)は、家臣の俸禄の削減、隠居料設定による本藩からの早期自立の
計画を実施しようと試みたが、元和5年(1619)大坂城石垣工事問題を契機とした、政敵桜田一派
との確執のなかで政争に敗れ、元和6年(1620)ついには、暗殺されるにいたった。



 ながらく、この事件は、政治方法を巡る私怨による暗殺と伝えられていたが、近年様々な文書に
より、これが上意討ちにあたるものであることが判明した。

 口伝ではそのような話が取りざたされていたとしても、それが正確になったのは昭和40年前後、
伊達家文書の中から、仙台藩主四代伊達綱村から宇和島二代藩主伊達宗利に当てた書状が発
見された。

当時の愛媛新聞記事によれば以下のような事が書かれていた。

前略-書状によれば
「かねてうけたまわっているように、秀宗公が山家清兵衛と申すもの御成敗なさった以後、その怨
霊が悪いことをやっているようです、その後神にまつったところ少しは良くなったそうですが、ご誕
生の男子が続々具合が悪くなったと聞きます。これは大変な事なので、私が瑞聖時(江戸・芝白銀
の寺)の鉄牛和尚に頼んで、怨霊法事をさせましょう。この件は他言無用。清兵衛や怨霊について
のことはできるだけ御自筆でお寄せ下さい。くれぐれもご内緒に」

文書の包み紙には五代藩主村候とみられる字で「吟味の上、火中にこれ有るべし 寛延二年
(1794)」と指示されていた。
たまたま燃やされていなかったために残っていたらしい。 後略

以上のように、史実が正確なものとして立証できたのは、極最近の話である。



 やがて、藩の体制が確立すると、彼は藩政改革の先駆者として、或いは民衆の義人として語ら
れるようになった。また、暗殺者、桜田一派に対し様々な災難が降りかかるようになると、清兵衛
怨霊説が流れ、承応2年(1653)には小祠が立てられ、山頼和霊と呼ばれるようになった。

 現在の丸ノ内和霊神社は明治41年の神社統廃合に際し、藩の東御蔵となっていた山家邸跡
地に、宇和島城日吉神社を移築して、山家氏和霊と合祀して大社となったものである。

◎三間町誌には次のような記述がある。重複するが記載する。

 宇和島藩10万石、初代藩主伊達秀宗の元和6年(1620)6月29日の深夜、家老総奉行山家
清兵衛講頼の私邸が、何者かに襲撃され、清兵衛をはじめ長男・二男・三男および縁故者など9
人が殺害された。
 当時の宇和島藩は、財政の逼迫、家臣団の不満などから家老で総奉行の清兵衛を排撃する一
派が起こり、藩主秀宗の意を得てその暗殺に至った。上意討ちとか対立派の抗争によるとかの風
評は、幕府や奥州仙台にも広がり、改易問題も心配されたが一応事なきを得た。
 然し、襲撃に参加した関係者に不慮の事故が続発し、たたりの噂が広まった。その為藩主秀宗
も罪を苦慮し、祠を建ててその霊を鎮めようとした。やがて領内外の住民の信仰を集め、和霊神社
として伝承され、今日に至っている。

 
−中略−

 秀宗は、当初、父政宗から付けられた清兵衛が、混迷する藩政に努める姿を信頼し、その手腕
に敬服していたが、次第に悦ばぬ様になり、ついには《桜田》玄蕃の讒言に乗ぜられて清兵衛を閉
門に処するに至った。

 命により桜田 一派はこの機会を逃さず政敵清兵衛を排除しようとして、6月29日の深夜、丸之内
(現在の和霊神社)の山家邸に乱入し、蚊帳の四つ手を切り落として、清兵衛・二男治部・三男丹治
を斬殺した。清兵衛時に42歳であった。

 この時、下男熊蔵は四男美濃を抱き上げて百方活路を求めたが遂に逃げ場がなく、思いあまって
誰かの救いを期待し、美濃を塀の外の敵中に投げ入れた。しかし塀の外から投げ返され井戸に落
ちたので、下男も後を追い入水して果てた。この井戸は今も子供の守り神「美濃様」として祭られてい
る。

 この騒ぎに、清兵衛の親戚で隣家の塩谷内匠は裏門から馳せつけたが、長男帯刀、二男勘太郎・
下男二人と共に斬り殺された。

 その外に山家邸に居た清兵衛の母・妻・養女の三人は、急を知って逸早く桧皮森(和霊町)の伊方
屋へ逃れ、更に乳母の在所蕨生《わらびお》(松野町)に落ち延びた。

 藩は政宗や幕府にもこの事件を報告しなかった。政宗は凶変を江戸で聞いて、立腹し、後見役桑
折左衛門に報告を求め、自ら幕府老中へ宇和島藩の改易を申し出た。また、領民の慕っていた清兵
衛を家中の私怨による讒言によって討ち果たしたことを許さず、秀宗にも公儀の沙汰あるまで謹慎せ
よと厳達した。

 秀宗は、父政宗に特使を出したり、後見役桑折左衛門を江戸に派遣したり、秀宗夫人の実家井伊
家に斡旋を依頼するなどしてようやく改易を免れた。

 秀宗は、軽率に讒言を信じ、清兵衛達をこの処分に付したことの不明を悔い、寛永8年(1631)に
明神を建立した。それから22年後の承応2年(1653)奉弊使が到着して神事が行われ、正式な神
社として和霊神社が誕生した。
 その後、五代藩主村候が、今日の和霊神社の体型を調えた。(原文のまま。)
《 》は管理人注 

★管理人追記 殺害された二男治部は19歳、三男丹治・14歳、四男美濃・9歳であった。清兵衛
殿は42歳、厄年だっのである。最近は知らないが昔は宇和島では命日には蚊帳をつらない風習
が残っていたらしい。まあ、最近はベープマットがあるから蚊帳などはないか。

 清兵衛の遺骸は事件後、日頃から彼に好意を抱いていた人たちの手で、密かに金剛山西の谷に
葬られた。清兵衛墓所は「おたまや様」と呼ばれ、伊達家菩提寺の金剛山大隆寺山門手前右手に奉ら
れている。
  
金剛山の西隣にある「おたまや様」


 三間町誌によれば塀の外とだけ書かれているが、私の聞いた話では、美濃を投げ込んだのは隣家
である。現存している井戸の位置からして表の外ではなく隣家に違いない。そして隣家にもすでに手
が回っていたので投げ返し、井戸に落ちた、というように聞いている。その井戸の側には祠があり、現
在でも人形や玩具が奉納されている。丸之内の和霊神社は小さい和霊様。和霊町の神社は大きい和
霊様と呼んでいた。今でも、老人は、丸之内の和霊神社の前を通るとき、軽くお辞儀をして通る姿を見
かける。

 また、和霊神社のことを「和霊様」と畏敬の念を払って呼び、決して慣れ慣れしく「和霊さん」とは呼ば
なかった。

 和霊様は西日本格地に分社があるようである。かっての夏祭りには内港は大漁旗を立てた漁船が近
郊からやってきて、祭りの期間中は海はびっしりと満艦飾の船で船でいっぱいで壮観であった。子供の
ころは、その船を見るのも楽しみであった。

 和霊大祭がいつ頃どのような経過で行われるようになったのかは不明である。毎年7月23,24に亘
って盛大に祭りが行われる。テレビなどでは、四国三大夏祭りとか言っているが、他の二つはどこなの
だろう。いつも疑問に思う。

 和霊大祭のフィナーレを飾るのは、走り込みである。これもその発生は不明である。これは7月24日、
夕方6時頃、丸之内の和霊神社を出た三基の御輿が町中を練り、市役所裏から後座船に乗り、築地
辺りから陸に上がり、須賀橋から、須賀川に入り、御幸橋横からまた上がり、大きな和霊様に行く、とい
うものである。

 特に最高潮に達するのは、川の中央に立てられた10数メートルの竹の先に付けられたお札を若者
が上り、取っておりるというものである。これは予めのぼる人は決められているが、濡れた状態で竹を
よじ登るのはなかなか難しいようである。お札を取った若者が降りると、祭りは終わりを告げ、見物人
は家路につく。子供の頃はあまりの人垣で、見たことがなかった。
川に入るようになってからは、毎度見物する事ができた。

 お札を取った後、竹は倒され、御神竹として走り込みで川に入ったものが奪い合う。どうも幹の部分
は決まったところに所有権があるようで、我々小者が奪い合うのは笹の葉の付いた枝にあたる部分
である。私もいつもおこぼれに預かっていた。

 最近は、この和霊様のお祭りを模倣した「走り込み」が近郊随所で見られるようになった。何でも最
初は模倣から始まることなので、これはこれで結構な事だと思っている。

中国地方では7月29日にお祭りをするところが圧倒的に多い。
これは山家清兵衛の命日として、考えれば、旧暦六月二十九日に暗殺されたという、大きな根拠に
なるだろう。伝わっている話では六月三十日(みそか)説と二十九日説が清兵衛の殺された日として
ある。私は襲撃部隊が二十九日に終結し、日の変わる深夜に討ち入り、三十日に死亡したのではな
いかと考えていたが、先日その愚かさを指摘された。
すなわち、当時の日付の考え方は、夜が明けるまでは前日だったらしい。
現在のように、24時で日付が変わらないということを教えてもらった。

ここで注目したいのは、元和六年は四月、五月、七月、八月すべて小の月で、二十九日までしかない
ことに注目してほしい。つまり月末が三十日まであったのは、この六月だけである。月末をそのまま二
十九日と誤って伝えられてしまったのではないだろうか?と私は考える。

★走り込み余談
 別なページにも書いているが、私も若い頃に約15回ほど走り込みの付録で、川に入ったことがある。
付録というのは、御輿を担ぐ訳でもなく、ダシをかつぐ訳でもないが、某団体のボランティアで、事故の
ないように警備担当の役に付いていた。

 須賀川は河口に近いため、海の影響を直接受ける。浅い時は水はせいぜい膝くらいであるが、大
潮の満潮時にかかると、全く背が届かない時がある。当然祭りなので、ある程度酒は入っている。溺
れる危険性のある時は、消防署のレスキュー隊が待機しているし、責任者は水に入る前に泥酔者や、
溺れる危険性のある人は川に入らないように注意をしているため、今までにそういう話を聞いたことは
ない。胸までの深さの時など、着ているはっぴの中にボラだと思われる魚が入ってきたことは何度もある。

 川に入った後は、いくら風呂で洗っても、翌日まで鼻をつくどぶの臭いが残っていた。今ではそれも懐
かしい思い出である。
 

和霊神社を見る  走り込みの音を聞く

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