松根東洋城
(まつね・とうようじょう)

本名豊次郎。生まれは東京であるが、宇和島伊達家代々の家老職松根家の子孫。
とくに幕末時代の有能な家老、松根図書の孫にあたる。

以下、津村寿夫著「宇和島の明治大正史」より引用(ほぼ原文)

俳句一筋に生き抜いて来た人物で、我が国俳壇一方の高い権威者であった。

  わが祖先は奥の最上や天の川
  秋風や木屋とはふるき饅頭屋
  昔名僧庭つくらせて秋の水

などは地方人の忘れ難い句の一つである。松根家は歴代宇和島藩の家老として仕えた名門で、幕末時代には図書の如き人材を出した。
その子権六が東洋城の父である。すなわち図書の孫にあたる。母は彼の伊達宗城の次女敏子、いうならば権門の血筋である。

 彼は明治11年2月15日東京で生まれた。父は司法官だったので各地の裁判所を転々と異動した。彼もまたその都度従わなければなかったことは勿論である。
大洲で小学校を卒業し、松山の県立中学校へ入学。同級生には普通選挙獲得運動闘士として有名になった今井嘉幸があり、一級したには晩年学習院長となった安倍戒能がある。
五年生になったとき、偶々「坊ちゃん」の夏目漱石が着任したので専ら英語を勉強した。

一高、京大と進んで明治38年に卒業。その翌年には宮内省の式部官となった。伊達家と縁故のある北白川宮大妃殿下の口添えもあって時の宮内大臣田中光顕も簡単に辞令を決裁した。その頃の東洋城は眉目秀麗の美男子だったそうである。
 俳句に志すようになったのは、漱石が熊本五校で教鞭をとるようになってからで、句稿を送ってはよく添削をしてもらったものである。それが因縁となってから正岡子規に紹介され、子規庵で開かれる句会には必ず出席し、その知遇をうけるようになった。

 その門下には高浜虚子、河東碧梧桐その他の駿足が存在して頭角を伸ばせている。東洋城の雅号を用いるようになったのはこの時代からである。
 然るに子規は明治35年9月肺を患って死去した。その直前の句
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」(注・原書には「癌三斗……」と書かれているが思い違いであろう)
をはじめ一連の句は今日でもあまりに有名である。

而して偉業の「ホトトギス」は高浜虚子が継承することになった。彼はこれを基調として後に俳壇の大御所となるのである。同じ正岡子規の門下である河東碧梧桐は新傾向、則ち破調の俳句に走って虚子とは分かれる事となった。

それからしばらくすると虚子は自分の主宰するホトトギス誌上の「俳諧師」その他の小説を連載するようになり、身辺が多忙となったので、予ねて国民新聞俳壇の選者たる地位を辞し、後任に東洋城を推薦した。俳壇に異彩を放つようになったのは勿論である。その他九段坂の自宅では毎週句会を開いたり、ホトトギスに俳句評釈などを書いていた。
然るに虚子は自分の都合で再び国民俳壇の選者たるべくその地位を取り戻すことになった。その際東洋城には無断で一切諒解を求めていなかった。
 東洋城は例の気性の持ち主であったから、その非礼に立腹している折柄、他にも一つ二つ感情上面白くない事があったので、これを機会にホトトギスとはあっさり関係を絶って終わった。

 そして大正4年2月には自分で俳誌「渋柿」を創刊した。
「渋柿」の名称について高畠亀太郎氏は「『俳句とは如何なるものぞ』と大正天皇から御下問があったとき『渋柿の如きにございます』とお答え申し上げたので、それをそのまま俳誌にとったものである」と書いている。表紙の題簽(だいせん)には彼の夏目漱石が筆を執った。

東洋城は虚子の生命とする花鳥諷詠論を笑い「俳人はそんな閑人の道楽や遊技にやるべきではない。生命を打ち込んで真剣に取り組むべきものである」と称し「芭蕉に返れ」と言うことを盛んに提唱した。
則ち芭蕉の精神に返って俳諧の本流に立つ事を忘れてはならぬ。また句形においても「や」や「かな」は保存せねばならぬという論である。渋柿の創刊と同時に幾莫もなくして式部官を辞して、それに専念する事になった。式部官といえば将来の栄進が約束されているようなものである。その地位を捨てて経済的にも苦しくなる俳誌に精魂を打ち込んだ事は、東洋城のその道への真剣さを物語るものである。
(管理人注釈・さすが宇和島人の心意気があらわれている。パチパチ)

これより先、若い時代に宇和島をよんだ句に
  古船の浮き桟橋や春の海
  大学を卒へて帰れば麦の飯
などが筆者(津村氏のこと)の記憶にある。

さて渋柿発行後の東洋城は全国各地で会員を中心として道場を開いた。普通ならば句会の集合であるが、殊更に道場としたところには意味がある。これに関して彼の弘田義定氏はこう述べている。
 「その後の東洋城は各地毎に渋柿の一門を集めて俳諧道場を盛んに開いた。それは普通の句会と違って、厳しさを持った指導であったため、自ら道場と名付けたものである。まこと指導の厳しさは徹底したものであり、およそ『渋柿』によって学ぶ者は微塵だにわき目も許さず、芭蕉精神に返れという主張をいささかもゆるめなかった。いつしか俳壇は虚子と並んで東洋城を二つの大きな柱とした。云々」

 その東洋城は大正8年頃と思われるが、故郷の宇和島に帰り久しぶりに西江寺で同じく道場を開いている。山門で撮影した記念写真の中には筆者の知っている人物も沢山ある。その中の白眉はやはり岡田燕子であった。吉田町出身の教育者でその頃は宇和島で教鞭をとっていた。若い頃から俳句を志して南海新聞の俳句欄に投書をするようになっていた。それが例の正岡子規に認められ「貴兄玉什、常々南海新聞紙にて拝見致し候処、咳唾珠玉を成す御腕前の程感服致し候、就いては御作「日本」紙上へも掲載致し度く候間御面倒ながら御投恵下され間敷くや、云々」と手紙を寄来し、その末尾に「白牡丹咲くや四国のかたすみに」の一句が添えてあった。彼は子規に認められたことが嬉しくてたまらずこの書簡を一生大切に保存していた。

燕子はこのようにして俳志が豊かだったので東洋城に会うと自ら意気が統合し、その後「渋柿」に協力するようになったのみでなく、自分も「南予渋柿」を発行したり、俳人の団体である「滑床会」を組織して渋柿伝統の精神を普及することになった。滑床会の句は悉く当時の南予時事新聞に掲載された。このようにして燕子は地方俳壇の興隆に努力したのである。

当時の滑床会員は二十余名だったと思うが、筆者(津村)の記憶に残っているのは都築霜月、三和蕭月、前田不歩、白石二黒、大塚刀魚、稲井梨花、二宮緑人
米田双葉子程度で他の連中は忘却してしまった。現在の地方俳壇はその頃に比較すると衰微して全然当時の面影もない。

 一方東洋城の「渋柿」は経営には随分と苦労をした。芭蕉精神を根底として経営に心血を注いだことは勿論であるが、算盤勘定からゆけば、主義に忠実なために一般には敬遠される傾向がある。これは直ちに会員の数や発行部数に影響する。例えば他の俳誌は妥協性が多く、投句は出来るだけ多く選の採って相手の歓心を求め一人でも多くの会員を集める方針をとる。これは何れの俳誌も共通のものであった。

その上虚子の如きは半折や短冊の揮毫を頼まれると相手構わず気軽く筆を執った。これに反して東洋城はこの妥協性がなく、会員の投句に対しても、満足するものがないと全部没書にして相手の機嫌をとらない。十句投じて一句選に入れば上々吉といった調子である。それほど俳句に対しては終始厳格だったのである。
揮毫に対しても虚子のように気軽には応じない。応じないのみならず依頼状に対しても返事も書かず黙殺する場合が多い。こんな調子だから会員のなかには腹を立てたり、気を腐らせて自然と東洋城の傘下から離れていく。わが南予地方でも去った者の数は決して三、四にとどまらない。けれども東洋城は性格が強くて決して自分の信念を曲げなかった。

大正十二年には関東大震災があり、昭和時代には大戦争が始まった。これ等の影響で渋柿の発行も用紙の欠乏その他で困難に遭遇した。東洋城はそれに屈せず、近県を駆け巡ったり、印刷所を見付けたりして漸く継続することが出来た。
その努力で渋柿は創刊以来一度も休むことがなかった。

この状態が昭和26年12月まで続いた。折柄東洋城は同人の松山市郊外、佐伯巨星塔の家に滞在中であったが、突然「自分は既に老齢」を理由に引退を声明するにいたった。「後継者を選定してくれ、それも無くば廃刊も屋無を得ない」と迄言った。巨星塔は在京同人等と協議した結果、宇和島出身の高弟徳永山冬子、夏川女の夫妻が協力して師の後を継ぐことになった。山冬子の父は徳永退治氏、夏川女は大阪の出身だが宇和島高等女学校の卒業だから地方には顔なじみがあるはずである。後継者にはなったものの、二人は経済的にも労働的にも随分と苦労をしたらしい。

その甲斐があって前途には漸く曙光が見えるようになった。昭和27年には東洋城は77歳で芸術院会員に推薦された。32年には山冬子は主宰を同人の阿片瓢朗に譲った。顧みると創刊以来、43年11月号を合わせると此処に653号、全国俳誌中ホトトギスに次ぐ永い歴史を持っている。まことに偉大な足跡と言わねばならない。五年後の昭和39年には労苦を共にしてきた夏川女は病気で死亡した。絶句にも見るべきものに
「夢も凍る春寒の空あけにけり」
がある。同じ年の12月28日の夜明けには東洋城も88歳の生涯を閉じた。どうした訳か知らないが、一生妻帯をせず独身で暮らしたので最期の枕辺にも門人のみが看取った。
 東洋城は芭蕉の俳諧の道を探求し、専念し、不断の努力と錬成とを続けた。その結果俳句には実に格調の高いものとなった。その意味においては我が国俳壇の最高峰の存在に達していた。大家となってからの句に曰く。

 @黛を濃うせよ草は芳しき
 二人見し芳野紀行の桜かな
 和歌の君に俳壇の臣や菊花節
 紫の源氏と寝たる布団かな
 清水の舞台でたたむ日傘かな

金剛山入り口にある句碑@

これは代表句ではないが、秀句の一部である。故郷の宇和島には松根旧屋敷跡(現宇和島市立病院内)と宇和島東高等学校とに句碑がある。


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