末広鉄腸

末広鉄腸

名は重恭、藩士末広禎介の二男として嘉2二年(1894)2月21日に生まれた。維新の功臣、都築温はその兄である。

 鉄腸は非常な秀才であった。はじめは藩校明倫館に学び、年二十歳で早くも明倫館教授に抜擢せられ、かねて藩政にも参加した。

 学問を好み、特に陽明学に傾倒し、その師を求めて八幡浜に上甲振洋、東京に林鶴梁、京都に春日潜庵の門をたたいて、大いにその学問を深めた。明治5年に神山県属、7年には大蔵省出仕と官途についたものの、官吏たるに飽きたらず、決然辞職して文筆を事とした。明治8年に東京曙新聞の編集長として迎えられ、ここにはじめて新聞界の人となり、これからその本領を発揮しての活躍が始まった。

 新聞記者となっても、その宿志が政治家にあったので、健筆を政治評論にふるった。自由民権を主張して時弊を痛論し、そのために明治8年8月には新聞紙条例にふれて禁獄せられた。その後、朝野新聞に転じてもまた筆禍にかかって禁錮刑に処せられたが、鉄腸の論陣筆鋒は、そのために少しも萎縮することがなかった。

 一方政客としての活動としては、立憲政治を強調して、自由党、独立党の結成に参加したり、その他いろいろの政党間に行動していたが、明治23年に国会が開設せられると、第一回衆議院議員に当選し、その後27年に再び当選して、その活躍が期待されたが、惜しくも舌ガンにかかり、明治29年(1896)2月5日、48歳でこの世を去った。

 鉄腸は、その政治活動の間に、「雪中梅」「花間鶯」等の文学作品を著した。それらは政治小説と銘打ち、自己の政治思想を盛ったものなので、純文学作品とは言えないが、当時のベストセラーとなって、彼の文名を高らしめた。また思いを海外に馳せて、明治21年には外遊を試み、その見聞を広めている。言論・政治・文学の各分野にわたって、先覚者として実に多彩な活動をした鉄腸は、まことに稀に見る人物であった。

 なお、鉄腸の長男重雄は法学博士、二男恭二は工学博士、そして孫の恭雄氏は理学博士で、魚類研究の世界的権威であった。お魚博士として郷土宇和島でも尊敬と親しみの念を受けていた。

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