藤原純友
(?−941)


「日本紀略」に、「南海賊徒首藤原純友結党、屯聚伊予国日振島」 とあり、10世紀の承平・天慶(てんぎょう)の乱に際し、叛徒の領袖藤原純友は伊予国日振島に集結し、1000余艘の船を率いて官物、私財を奪いとった。純友は伊予の掾として任国に下りながら、任期が切れても帰京しないで、海部たちを率いて、時に内海で海賊を働いたものとされている。

 日振島は内海からは遠く、豊後水道の真ん中の孤島であるが、海賊の拠点としては絶好の場所であった。後に純友の活動範囲は豊後水道から瀬戸内海、畿内地方にまで及んだ。日振島の対岸、豊後海部郡の佐伯是基が純友の副将各であったことを見ても、その勢力範囲が判る。

日振島村史より

「字明海(あこ)西南ノ山頂、小字城ノ堀ニ古城趾ト思シキモノアリ。藤原純友ノ築ク所ト云フ。然レトモ古老ノ口碑ニ止マリ、見ヘキ書類ナシ。今ハ山頂平坦ニナシタル所凡ソ三畝歩小松原トナリ居レリ。其ノ西に堀切タル形跡ヲ止メ東西ニ石垣ヲ存ス。又其ノ城趾ノ付近ニ純友ノ堀リタルト云フ井ヲ存ス。喜路(きろ)ノ小字寺山ニモ城趾ト思ハシキモノアリテ、其所ヨリ鉢皿等ノ食器ヲ掘出スコトアリト云」


 しかし、その活動もやがては部下の裏切りの前に滅びさり。伊予警固使橘遠保の手で純友の夢は、群青の宇和海に消え去った。

 純友様活動報告書

 最初は海賊を取り締まるはずの純友であったが、その任期を終えた後も居残り、ついには自らが海賊の大将となった。
 純友が関与した事件とは無関係であるようだが、「承平4年(934)冬、近年海賊らがまだ追捕に従わない。去年の末、伊予の国喜多郡の不動穀三千余石を盗む」 と「扶桑略記」に書かれている。

 当初は海賊を押さえるために派遣されていた純友は、何時しか海賊の首領になっていた。折から東国では、平将門が朝廷に対し関八州を手中に収めようと反乱を起こしていた。この二人は決して意思統一をしていたとは思えないが、関東、瀬戸内海と、京都を挟んでほぼ同時期に起きた、反乱は朝廷を大いに慌てさせた。
 一時期は純友懐柔策として五位の昇叙しているが是も一時の策にすぎなかった。当時瀬戸内海は物資の往来が盛んで、陸上輸送に比べ、船での海上輸送は効率的であった。それが海賊を生じる要素にもなっていた。

 純友がしばらく態度を軟化させているとき、その部下の海賊は天慶2年(939)12月、海賊の情報を京に報告に行く途中の備前介藤原子高(さねたか)を摂津国で捕らえてその子を殺し、また播磨介島田惟幹(これもと)を捕らえている。翌3年2月には備中の官軍を破り、淡路を襲って兵器を奪っている。

 また、海賊は淀川をさかのぼり、京都に潜入放火し、住民は朝夕純友が海路を伝って上京するとの噂に脅かされた。8月には純友の動きは活発になり、400余艘の賊船に襲われた伊予国についで、讃岐国が荒らされ、合戦に敗れた讃岐介藤原国風は一時阿波国に逃れている。また、備前・備後の兵船100余艘も焼かれている。10月から12月にかけては、九州太宰府の兵が打ち破られ、周防では鋳銭司が焼かれ、紀伊国についで土佐国までもが海賊の侵略を受けている。

 これに対し、追討軍は、播磨・讃岐両国で200余艘の船を造り、兵を集めて讃岐に帰っていた、藤原国風とともに伊予に追撃しようとしたが、このとき純友の軍勢は1500艘にもふくれあがっていた。

 だが、純友の腹心の部下藤原恒利が、賊陣から抜け出て国風のもとに投降していたため、追討軍は純友らの情報を得ることが出来た。隠れ家、海路などを詳しく知って、天慶4年2月、純友を裏切った恒利を先導として伊予を襲い、純友は大敗する。その後起死回生を計ったか、あるいはやけのやんぱちになったのか、5月、純友は体制を立て直し、太宰府を襲うが、追討軍小野好古らの攻撃を受け筑前博多津に追いつめられ、ここで純友軍は壊滅状態になる。

 かろうじて日振島に逃れ帰った純友であるが、伊予警固使、橘遠保に捕らえられ、7月その首は京都の送られたという。天慶4年の事であった。
 その後、橘遠保はその功績により、代々伊予国宇和郡を与えられた。
 まだ武士が階級的に進出していない時代、やがてその将来を予測させる事件であった。

力=暴力が権力支配構造の中で、重要な要素をしめる事を象徴させた出来事ではないだろうか。なお、日振島にはかって海運王と言われた、山下亀三郎翁が建立された、純友の記念碑がある。朝廷に背いた謀反人なので、戦前に書かれたその碑文はややテンションが低いらしい。(私もまだ見たことがないが)

純友の財宝??

※余談ながら、昔から、海賊純友の残した財宝がどこかに隠されている、という話がある。私が聞いた話の多くは、海中、或いはどこか海岸の絶壁の浸食洞のなかに隠されて今も眠って居るという。
 その中に一つ変わった話がある。それは、現在の内海村にある観音岳という山のどこかに埋もれて居る、という話だ。その山は海岸に近く、日振島からは間近に眺める事が出来る。まんざら根も葉もない話ではなさそうだ。
 財宝、というものがどういう種類のものであるのか、或いは、純友が財宝を蓄えて居たのかという事すら不明であるが、宇和島では、未だ純友の宝物が出てきたという話を聞かない。
その代わり 「純友」 という名前の日本酒がある。

消えた?発掘古銭

 戸島では昭和25年3月、埋め立て造成工事中に、数万枚の古銭の入った壺がでてきたという。渡来銭で鑑定によると、貨幣の製造年代は621〜1433年のもので、純友とは時代的に無関係なものらしい。発掘された古銭は鑑定と称して、ほとんど持ち去られ、戸島に戻ってきたという話は聞かない。金銭的な価値は余り無いかもしれないが。持ち去った人間の一部は特定出来る、故人になった人もいるだろう。

(古銭は島に返せよ! ほんとうに! 島の人が純朴な事を利用して。)

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