宇和島市の上水道事業

1 町制時代からの懸案

宇和島の上水道敷設問題は、町制時代からの懸案であった。

大正4年(1915)、時の中原町長は熱心に上水道の必要を認め、東京市の中野昇技師に委嘱して「上水道敷設大要」を立案。吏員を九州各地に派遣して視察させた。

 同7年(1918)5月、三田善太郎技師を招いて、水源その他の実地調査を行い、工事費30万円をもって上水道敷設認可申請書を提出する運びとなったが、上水道に対する国庫補助金は町村には交付されないことが判り、計画は挫折してしまった。しかしこのことが、宇和島の市制実施を必要とする大きな要因になったのである。

大正9年(1920)の夏は、宇和島地方にコレラの大流行を招き、患者60名以上という恐怖に襲われ、このことが上水道敷設を要望する声を一段と高めることとなった。

2 上水道の調査と基本計画

宇和島市の市制施行による基本事業の第一歩は上水道敷設の大事業であった。大正11年(1922)3月、東京イリス商会のドイツ人ザーラー技師を招いて水源池の実地調査を実施。同年8月、当市出身の京都大学教授金子博士の紹介により、同大学大藤高彦工学博士の水源地調査並びに指導を受け、上水道事業の基本的計画の基礎ができた。

同年10月、市役所内部に上水道調査事務所を開設。調査技師に川端治吉(後、水道課長)を任命した。水源地を須賀川上流、柿原川、薬師谷の各地に求め、調査を開始し、前記両博士を顧問として具体案の作成に着手した。

第104号議案 (原文は縦書き)

上水道調査ハ左ノ方法ニヨリ之ヲ行フ 
一、予定人口ハ第一期工事ヲ四万五千人 第二期工事ヲ六万人トス
一、人口ノ平均給水量ヲ三立方尺(四斗五升)トス
一、水源地ハ須賀川ノ上流 柿原川ノ流水ヲ引用ス
  理由 
    今回各地ノ上水道ノ実況等並ニ市ノ現況ニ鑑ミ 本案ノ如ク調査ヲ進行セントス


 翌12年2月、年度予算に水源調査費を可決、同年6月市会に上水道敷設に関する実施計画議案を上程し、即日可決。この議案は宇和島市水道事業の基礎となった。

〜 中略 〜 

この間水利保証問題で頓挫しそうになるが、粘り強い交渉の結果、地区住民の理解を得て、着工にかかるが、その間関係者の苦労はかなりのものであった。市議会内部でも必ずしも、全員が賛同したわけではなく、反対派の台頭、一部議員の辞職、市政批判演説会など、水道問題は市民の大きな関心となっていた。

 工事概要 大正13年6月内務大臣の認可をえる。同月24日水道委員7名決定。中川鹿太郎、高畠亀太郎、中村惣八、高岡彦十郎、堀部乙蔵 槇本源蔵 二宮喜一

 水道工事は之を請負に付することを決定。翌14年1月、大阪栗本鉄工所と鉄管契約を結び(2450余トン、31万8千余円)、同月水利保証金87500円を柿原区民に交付。3月29日柿原字鴻の巣において水源地地鎮祭を執行。5月9日水源地及び鉄管敷設工事いっさいを大林組と請負契約を締結。請負金28万7千余円。総工費90万2千余円。

こうして、大正15年8月5日上水道工事完成。11月14日から16日にかけて上水道通水祝賀の会を挙行した。

通水式は同月16日に天赦園で開催。知事・宇和支庁長・別府市長その他の来賓の祝辞があり、久野市長(このころは山村市長から久野市長に代わっていた)の式辞、川端 水道課長の工事報告を行って感激の式典を終了した。

 この式典にあたり、柏木助役は次の感想を述べている(一部略)

「今度の水道敷設については、山村前市長のもとにあって当初から企画に参与し、落成に至るまで川端水道課長とともに直接その衝に当たったので、感慨深いものがある。
 中途水利補償問題については、いささか紆余曲折があったが、それ以外は総て予定通り進捗したことは他の都市に見えないところである。市民の幸福は申すまでもないことであるが、これが統計の結果、例えばチフス等の如き伝染病の減少等については両三年後を待たなくては判らない。
 市の水道工事にについては、私は少なくとも次の三つの特色を持っていることを誇りとする。
第一は、工事が請負に付されたことで、これは全国の嚆矢(こうし=鏑矢、始まり)とする処である。
第二は、自然流水であることで、現に四国四市の高松、高知、丸亀、徳島の水道は総て河川からの汲み上げによるため、年額3万8千円、一カ年一市平均9千7百円の動力費を永久に払うことになるが(※注=当時の状況)、我が宇和島市は源流を流水に求めているので、この負担を免れることは市長会議の席上で羨望の的となったところである。
第三は、市債の安いことで、当初八分二厘の予定が事実七分二厘四毛という低利となり、その差額26万5千円で、このため市債償還二カ年を早め、16年で終了する予定である。」

宇和島市の上水道敷設事業は、新市創設の大事業として語り継がれ、その恩恵については今なお市民が感謝しなければならないことであろう。

後年(昭和29年)「宇和島市行財政特別委員会」の「上水道事業」報告書の序言に「この事業の達成のもたらしたもの」として以下のように述べられている。

1,為政者の政治的気宇の広大と不動の信念。

  上水道の敷設は、単なる飲料水の確保という小乗的なものではなく、宇和島を南予の中心都市として、外政的に陸は四国循環鉄道の要衝とし、海は九四連絡の基地としての態勢を整備するため、宇和島市から悪疫を駆逐し、健康にして文化的な 〜中略〜 しかも為政者はこの工事を起こす所以を「人類共存の天恵を全うせんと希うものである」 後略


2,人的結合の効果

 即ち山村市長、柏木助役、川端水道課長の名トリオの結合こそ、上水道完成の原動力で逢ったと言える。


3、根気の良さ

 この事業の企画以後の調査及び実施計画の上に、地元民との間に8万7千500円の水利補償費が最終的に決定するまで、双方よく99回の交渉会談を重ねている。


4,水道設置委員会以来32回に及ぶ頻繁な調査審議に精魂を傾けて精励した各委員の勤勉。


5,本工事着手までに十万円と称される、巨額の調査費を投じ、調査設計の万全を期し、周到な計画の下に工事を実施したこと。


6、この工事が全国初の請負工事として施工されたこと。

感想

何よりも県下で最初の上水道をこの時代に作った事は驚きです。

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