宇和島藩最後の処刑

宇和島藩の刑場は、元は丸穂の畑枝(はたえだ・旧火葬場入口付近)にあった。

畑枝の処刑場跡(以前は大きな松の木があったが、今それも無い)

だいたい千人の死刑を執行すると、千人塚を作って刑場をほかの場所に移したという。

磔・獄門のような重い刑は大浦の黒の瀬で行われた。藩政時代は。宇和島藩の領内ならどこで悪事をしても、城下送りになった。罪人は縄で縛り捕り手の役人(お小人)がつれてきた。映画に出てくる唐丸籠などは、よほどの凶悪犯でなければ使用しなかった。

牢獄は今の立正寺の前の方にあった。死罪のきまったものは、刑の執行の時には入浴をさせ、新しい着物を着せ、整髪もきちんとさせた。そうして牛の背に後ろ向きに乗せ、町内を引き回される。その引き回しの時には、罪人は悪口の限りを言うので、町内では戸を下ろしていた。又、罪人が所望する食い物は、ただでやらねばならぬ風習であった。

宇和島藩最後の処刑(磔)は、土佐の角治というもので、土佐で数々の悪事をはたらいて、伊予横林村に来た。そこで福楽寺の和尚が小判を隠しているという噂をきいて、悪心をおこし、この寺に火をつけて、和尚が金壺を持って裏山に逃げるところを殺して金を奪って逃げた。
 その後、宇和島に来て寄松の赤土鼻にあった茶屋に押し入り、夫婦を殺して売上金を奪い、岩松方面に逃げるところを捕らえられ処刑された。
引き回しの時に、伏見屋という魚屋でちくわをもらって食い、黒の瀬で磔になった。これは慶応4年の事である。


 余談になるが、須賀川下流に架かる橋に「見返橋(みかえりばし)」と名付けられた橋がある。この橋は昭和初期、須賀川付け替え工事で新しく出来た橋。、名の由来は付け替え前にあった、現在の住吉山から刑場黒の瀬に向かう「見返り坂」からきたもの。
罪人が処刑に臨むおり、この坂から宇和島の町を今生のなごりで見下ろしたという。いくら罪人とは言え、悲しい思いが伝わってくる。

みかえり橋を見る

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