宇和島藩 萩森蔀(はぎのもり・しとみ)事件


 18世紀末の天明・寛政期から宇和島藩は厳しい財政危機に見舞われていた。

 文化9年(1812)11月、藩は老中稲井甚太左衛門を頭取として、若年寄武田蔵人、元締役小波軍兵らに倹約の励行を命じた。

 同月20日、稲井は藩主伊達村寿(むらなが)の居館浜御殿の広間に家中一統を招集し、「御役人ハ勿論、御家中軽面々迄致弁別、銘々忠誠可相尽」
と過重な用立米の徴収の続行に理解を求めた。

 翌21日夜、稲井邸に小簗川主膳。井関徳左衛門の二人が倹約令の相談にいっていたところ、番頭役の萩森蔀宏綱が手槍を携えて稲井邸を訪れた。

 この昼間稲井、小簗川と萩森は「倹約令」に関して口論に及び、倹約令に批判的で、小身者の生活難の救済を主張した萩森は稲井に罵倒されていた。

 詳しい記述は略するが、萩森は手槍で井関を襲い手傷を負わせた。萩森の処分には時間がかかったが「老中を侮り上を軽じ候致方」として切腹を命じられた。

 彼の死後、話を聞きつけた家中、町方のものが萩森の墓所に参拝し、多くの参拝者増えてきたという。藩はこれを禁止したが、夜中にこっそりと忍び参りをする者があとを絶たなかったという。

 その後政策はやや改まり。彼が小身者の立場に立って発言をし、身を挺して行動したこと。藩札の引き替えが自由に正銀と両替出来るようになったことで。「萩森様御霊成る事也」とされ、この噂は藩内にとどまらず、吉田藩、遠くは淡路島まで伝聞され、萩森神社の建立がされて信仰の対象とまでなった。

 文化9年12月2日、藩は翌年から3カ年の倹約令を発した。その中で半知借上は三歩借上に変更され、同月17日家中に対する藩の借下米。借下銀はすべて引き捨てとされた。

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