西南戦争と宇和島人


明治10年2月15日、西郷隆盛率いる私学校党1万3千人の兵を主体にした維新後最大の反乱、西南の役が始まった。正確に云えば、血気にはやる若者達はの起こした騒擾に西郷は巻き込まれて引くに引けない状況になってしまったものであろうが、ここでは西南戦争そのものを論じる訳ではないので、詳細については割愛する。【余談だが、高校時代読んだ松本清張の「西郷札」がおもしろかった】

 征韓論に敗れた西郷隆盛は、陸軍大将の地位も捨て、故郷の鹿児島に帰り、静かに余生を送ろうと思っていた。しかし従来股肱の臣と見られていた、桐野利秋、篠原国幹、村田新八等をはじめ、平素から隆盛に心酔していた多くの人がその後を追って続々帰国し、いずれも明治政府打倒を論じ、旗揚げを迫るようになり、西郷も当惑をした。

その為、こうした風潮を鎮めるためには、教育によるしかないだろうと思い、鹿児島城山の麓に私学校を開いて、多くの青少年の育成に努めた。これに対しては鹿児島県令大山綱介が県費を支出して応援したので、たちまち全県下に伝播し、各村何れも分校をみない処はないという盛況ぶりであった。しかもその子弟達は隆盛の偉大な人格と高潔な品性を尊敬し
「先生の為ならば敢えて水火をも辞せず」
という信念を燃やすようになった。

 これより先、明治7年には江藤新平の佐賀の乱、9年には上野謙吾等による熊本の神風連の乱、同じく今村百八郎等の秋月の乱、山口には前原一誠の萩の乱が相継いで発生した。何れも明治政府の措置にに対する不平を行動に起こしたものであった。
 政府は各地の反乱に神経をとがらせ、危険を防ぐために明治10年1月鹿児島の砲兵属廠を大阪に移転することに決定し、それと前後して9年12月末、鹿児島出身の少警部中原尚雄ら十余名を鹿児島に潜入させ、県下の情勢を探ると共に親類、知人らに私学校党に組みしないよう説得をした。そして1月鹿児島に蓄えていた、弾薬、兵器の一部を密かに大阪に運ばせた。これが私学校党を刺激し、10年1月29日には火薬庫を襲う原因になった。彼らは2月3日中原警部ら21人の政府警官を捉え、政府の密命をうけ私学校党をつぶし、西郷暗殺をはかったと自白させた。」などの噂が流れるようになり、生徒達の激昂は日を追って高まっていた。

 その頃宇和島ではどうであったのか
 南予においても宇和島、吉田、大洲の士族の間には政府転覆の計画が進められたいた。上京し、木戸孝允をはじめ要職の大官を暗殺し、替わって西郷隆盛を擁立する、もし西郷に支障のある場合は桐野利秋を担ぐというのである。暫く時機の到来を待っていた処に鹿児島の風雲急を告げる情報が入ってきた。開戦となれば豊予海峡を遮断して、ここで政府海軍を阻止し、戦況を鹿児島に有利に導き、勝ちに乗じて上京し、一挙に政府を転覆させるという作戦に変更した。

吉田寅一鹿児島に向かう
 その為にはどうしても鹿児島と連絡を取る必要がある。この重要な使命を受け派遣されたのは宇和島の士族吉田虎一であった。彼は藩政時代にはお庭番を勤めた人物で役目柄政府筋には顔見知りがない。こうして彼は特使として単身鹿児島に赴いた。
 一方鹿児島では1月29日から2月2日にわたり多数の生徒が四組に分かれ、各地を襲い、小銃数千丁、弾薬二万四千発を強奪するという事件が起こった。桐野利秋は「年少の輩、血気にはやって遂に大事を誤る」と痛嘆したがこのまま生徒を見殺しにはできない。当時大隅にいた隆盛のもとにとび「最早意を決する以外に道はない」と奮起をせまった。

鈴村逮捕される
 いっぽう南予である。薩摩の生徒が騒擾を起こした日から間もなく、同じ2月の24日の朝まだ空けやらぬ頃、宇和島では丸之内桑折元家老宅の近くに住む鈴村譲の自宅が官憲に襲われ、突如逮捕された。彼はまだ寝ていたが、はげしく表門を叩く音がするので出てみると三人の巡査がいて「警察派出所まできてくれ」という。身に覚えのあることと云えば、政府転覆計画しかない「事が露見したな」と直感した。家の中には重要な同志の連判状がある。もしこれを押収されでもすれば大変な事になる。そこで彼は「寝間着なので、羽織、袴に身をたださねばならぬので、しばらく待ってくれ」と奥座敷に入り、書類を素早く処分した。この事件では吉田、大洲からは多数の逮捕者をだしたにもかかわらず宇和島では唯一鈴村一人に終わったのは、彼のとっさの判断によるものであろう。
鈴村はその時「三人くらいの巡査なら叩き切る」と日本刀を用意したが、窓を覗いてみると、家の廻りには警視隊宇和島仕出八等警部横山政輔の指揮下、多数の巡査がすでに包囲している。「これでは駄目だ」と観念し、妻に「二、三日帰れないかもしれない。母が心配するといけないから何も言うなよ」と言い残し素直に連行された。
 その後、予定通りに家宅捜索が行われたが、捜索をした巡査の一人に鈴村の漢学の旧門下生がいて「こんな汚いものを何をしていたのだろう」と云いながら投げ捨ててくれた。これは重要な書類だったようで、鈴村の妻は黙ってそのまま焼き捨てたという。また、おりから来合わせていた者の中に機転のきく者がいて、速やかに武器、弾薬を肥だめにいれ、上から蓋をしたので、巡査がいくら探しても証拠品になるものは発見されなかった。
 鈴村は警察の取り調べに対し
「勤王愛国の念を肝に銘じて上京し、政府に建言したいと考えたことはあるが、それすらも未だ果たせないでいる」と答えるのみで他には一切何も自白しなかった。その日は拘置となり上蔵の中に入れられたが、深夜12時頃になって突然呼び出され「今から松山に護送する」と告げられた。表に出ると二つの唐丸籠が用意してあった。もう一人は吉田の飯淵貞幹のものであった。七人の巡査に付き添われて出発した。前を鈴村、後に飯淵の載せられた籠は宇和島を後にして暗い夜道を法華津峠に向かった。鈴村はこの時母の事を思ってその心には切々たるものがあった。彼が護送途中で賦した漢詩の一節に
「母を思いて心むなしく苦し。ときに傷みて涙自ら流る。山中三里の道、見る聴くこれみな愁い」
というものがある。彼の胸中はまさにこの通りであった。
話はそれるが、吉田松陰が刑場に向かうおりにも母を案じる歌がある。また、天誅組の乱で花と散った吉村寅太郎にも死ぬ寸前に故郷の母に宛てた手紙が残っている。武士の血を引く人に共通の点として母を大切に思う心は人一倍強いものがあるのではないだろうか。
 卯之町をすぎ、大洲に来ると肱川を船で下った。その際にも「就縛 暁の大洲肱川を渡る」と題した次の七言律詩がある。

 昔かって遊ぶ渡頭の船を喚びて
 今日重ねて来たり往年を感(おも)う
 撃揖(げきしゅう)叱磋(しっさ)す辞や典午(てんご)
 纓冠(えいかん)慷慨(こうがい)幽燕(ゆうえん
ママ幽遠?)に入る
 霜、宿鳥の驚く亀城の暁
 寒風樹を掃う肱水の天
 春愁恨むなく路(ちまた)また、恨むなし
 雲程此より幾山河


こうして26日は郡中泊まりとなった。ここで八幡浜の上甲振洋が同様に護送され一緒になった。27日に松山の県庁に到着し尋問が始まった。鈴村に対する取り調べは鹿児島との関係、宇和島地方での計画が中心であったが、激しい拷問にも鈴村は一切知らぬ存ぜぬと言い通した。
 当時この事件に関した主な者は宇和島では鈴村の他に上甲振一、本城政恒、岩城泰助、野中重遠、吉田虎一、吉田では飯淵卓幹、国府寺信教、久徳重愛ら15人、大洲では武田豊城、水田元一郎、上甲正郁、杉江安忠、得能通虎、宮崎嘉道、沖良憲、江口楠太郎、沖本道愛他200名くらいで旧三藩を代表して鈴村譲、飯淵真幹、武田豊城等が中心となって武器、弾薬を調達した。特に鈴村などは伊達家に残っている数量まで秘そかに調査して、いざという場合は直ちに取り出す計画もしていた。そうしている間に鹿児島では風雲急を告げたので吉田虎一を派遣することになったのである。

 この計画が露見したのは、大洲の同志下井勝人なるものが自分個人の利害から裏切ることになった。松山に護送された同志は約四十人。五月以降になると次々と釈放されたが、最後まで残されたのは、鈴村譲、飯淵貞幹、武田豊城、永田元一郎、上甲振洋など十二人になった。何れも朝憲紊乱罪に問われ、九月以来数回の裁判が行われた後、飯淵、武田、永田の三人は事件の首謀者として士族の籍を剥奪の上、懲役五年。鈴村は同じく三年、上甲振洋は同じく一年六ヶ月。その他は三年の判決を受けた者が多かった。当時は上告の制度などはないので判決と同時に皆、松山の監獄に収監された。

吉田寅一特攻、爆砕す
 一方西南戦争は日を追う毎に激しさを増した。宇和島から情報交換の為に鹿児島入りした吉田虎一は宇和島に帰る事も出来ず、そのまま西郷軍に加わった。
当初は西郷軍は九州全土を席巻する勢いがあったが、やがては圧倒的な軍事力を有する政府軍にじわじわと追いつめられてきた。
 田原坂の激戦では両軍一進一退の攻防を強いられていたが、乃木大尉の指揮する弾薬補給軍が付近の木留山に進軍してきたその時、吉田虎一は単身篝火を持ち、隊列の中に突入し、身を挺して此を爆破させた。吉田の特攻も戦局を左右するような大きな変事にはならず、やがて西郷軍は潰滅し鹿児島の英雄西郷隆盛も城山の露と消えた。

大津事件余談
 話は飛ぶが、その後大きく日本を騒がせた、「大津事件」の実行犯巡査・津田三蔵は当時陸軍軍曹として政府軍に加わり、田原坂の激戦を経験して吉田虎一の自爆攻撃を目撃していたそうである。退役後滋賀県巡査を拝命、大津警察署に配属されたが、(これは誤りのようだ)奇しくも当時の大津警察署長に宇和島出身の桑山吉輝がいた。桑山が宇和島出身であることを知ると、
「署長殿は伊予の宇和島藩のご出身と聞いていますが、私も先祖は代々藤堂家に仕えた御典医でしたので、宇和島藩とは少々縁のあるものです。伊予の宇和島はお国柄で滅法な人間(偉い人物の意)が時に出ると聞いております。小官が軍籍にある頃明治十年の西南戦争当時、木留山付近の戦いの時でありましたが、乃木閣下の指揮下にある弾薬輸送車に篝火を抱いて身体諸共突入し爆破した滅法な人物がありました。この為に官軍はひるみ、一斉に賊軍の抜刀隊が斬り込みをかけ、官軍は肝をつぶして大混乱で、一時は総退却でありました。吉田某という宇和島藩士が賊軍に加担してやったことだと聞いております。なんと滅法なことをやるものだと小官は驚いたものでした。」

と西南戦争の話をしている。【管理人注・これに関しては明らかに誤りだと思われる。津田三蔵は襲撃した大津で警備の任務に就いた時には、滋賀県警、守山警察署の巡査であった。応援による勤務であり、その責任をとり守山警察署長近藤治清は辞任している。また、滋賀県知事沖守固は就任して五日目にこの事件に巻き込まれ県知事を辞任している。ただ翌年には和歌山県知事に就任している。これを見ると、巡査・津田三蔵が大津で事件を起こしたから、大津警察署員であった、という錯覚で津村氏は書いているのではなかろうか? ちなみに、西南戦争に政府軍として戦闘に加わったことは間違いはない。そこで津田は負傷している。津田が最初に巡査を拝命するのは三重県である。そのご一時期退官し、復職したときは守山警察署であった。大津警察署に勤務した記録はないから、桑山の直属の部下だというのは明らかに誤りだとい思われる】

鈴村が判決の言い渡しを受けたのは西南戦争が終わって二ヶ月後のことであった。
 大津事件については有名な事件なので此処ではあらためて延べることもないが、事件に関係した、巡査・津田三蔵(彼の言によれば)、当時の大津警察署長桑山吉輝、その後この事件を担当することになった、児島惟謙いずれも宇和島関係者であったことは、偶然とは言え不思議な巡りあわせである。
 桑山はその後この事件の引責を受け辞職し、宇和島に帰ることになる。

 さて、話を鈴村譲にもどそう。
 明治12年秋、刑期を二ヶ月残して鈴村は仮出獄となった。当時の愛媛県令岩村高俊は公判を通して知った、鈴村譲という人間性に惚れ込んでいた。出獄後政府に仕えるように要請したが、当人は耳を傾ける様子もなく宇和島で静かに暮らしていた。しかし、明治19年穂積陳重の口添えで大分県警部に推薦され、南海部郡、北海部郡の警察署長を歴任。最後には北白川宮殿下を祀る官弊中社台湾神社の宮司になったが、昭和2年にはこれも辞して故郷宇和島に帰り大超寺奥で悠々自適の晩年を送った。

【管理人・タック私見】
 以上は津村寿夫の著書を参考にしたが、大洲市誌によればかなり内容が変わってくる。まず、計画が漏洩したのは、山口県出身の松岡新太郎が2月20日内ノ子屯所で不審尋問を受けて、計画のすべてをしゃべってしまった事、となっている。また、津村著では上甲振洋が逮捕されたとなっているが、大洲市誌によれば上甲振洋は病気のために逮捕を免れ、長男振吉が代わりに逮捕されたという事が書かれている。これは「愛媛県警察史」から引用されていると書かれているのでこちらがより正確であろうかとは思われるが、「宇和島の自然と文化」では上甲振洋は官憲に逮捕され、厳しい叱責を受けたが、敢然として政府の失政を摘発し屈せなかった、と書かれている。上甲振洋は翌明治11年(1878)9月9日八幡浜で没したとあるから、仮に捕らえられたとしても下獄はしなかったのであろう。また、愛媛新聞社刊の「愛媛人名大辞典」にも上甲振洋の項には西南戦争に拘わり検束される、と書かれている。
 因みに上甲振洋は文化14年(1817)生まれ、宇和島藩儒学者上甲順治の子、安積艮斎(あさか・こんさい)に学び帰藩後藩校教授を勤めたが、安政4年八幡浜に私塾を開き、門人は数千人を数えたという。その墓は宇和島選仏寺にある。

前に戻る

TOP


SEO [PR] 母の日 カード比較 再就職支援 バレンタイン 冷え対策 誕生日プレゼント無料レンタルサーバー ライブチャット SEO