大和田建樹(たけき)伝 その一

津村寿夫著「宇和島の明治大正史」より  ※禁転用
(読みやすくするために、一部改行、誤字訂正していますが、原文のまま)


 大和田建樹は文学者として明治文壇の一角に独異の存在を為した。その著書実に97種、151巻、外に唱歌などの作詞1300余編、この数字は当時文壇最高の記録であった。然も彼の鉄道唱歌の如きは都会は勿論草深い津々浦々迄に及び一世を風靡したものである。

 建樹は安政4年4月29日藩士土居水雲の一子として丸之内に生まれた。11歳のころから和歌、俳句を作ったという。穂積重樹、清家堅庭いついて国学を修め、明治12年11月、更に国文学の研究を志して初めて上京した。本郷元町に下宿を見つけて腰を落ち着けたが、直ちに困ったのは生活費の問題である。元来建樹の家は貧乏士族で、特に廃藩置県後は禄をはなれて経済的にも痛手を蒙っている。学資などの貯えもなく、郷里からの仕送りも勿論望めない。

 上京はしたものの流石に悩んだが、隅々世話をしてくれる者があって翌年3月公詢社の書記に採用され月給8円を貰うことになった。そこで下宿を引き揚げ、社内の一隅を借って自炊生活を始め、その余暇を割いて苦学の第一歩を踏み出した。勉学は勿論国学であったが、精神力と情熱は極めて旺盛で目的の科目の外に博物、哲学、語学等にも志し何れも著しい進境をみせた。

 そこへ14年の春、予期もしていなかった幸運に見舞われた。則ち東京大学の九等書記として理学部に勤務することになったのである。書記の階級としては末席であったが、自分の勉学には最も場所を得たところといえる。これには建樹も喜んで故郷の親友、野島重に宛てて
 「小生のお役目は一口に申さば15円貰って理学部の生徒になりたる様なものなり。勉学のためには大便利のところ故大いに幸福の至りと喜び居り候」
 と欣喜雀躍の情を斯う述べている。

 さて東京大学では辞令を貰う日には礼装に正して出勤せねばならぬ慣例がある。けれども建樹には勿論その持ち合わせがない。そこで洋服を借用に及んだがそれすらも詳しくは着る術も知らない。致しかたないので同郷の穂積陳重に着せて貰ったりネクタイを結んで頂いたりして漸く学校へ赴くことが出来た。

 これは建樹にとって一生想い出深い逸話となった。爾来三カ年その造詣が認められて大学講師となり古典学を担当することとなった。これでやや生活の安定を得たので、この年飯田歩郷の長女計伊子と結婚して神保町に新しく世帯をもった。

 19年3月にはその椅子を辞して高等師範学校教授となった。その間前後し「徒然草類選」「友千鳥太郎集」「友千鳥二郎集」「詩人の春」「幼稚の曲」「いざり火」「書生歌集」「明治唱歌集」などを著して早くも文壇の一角に名を知られるようになった。

 建樹にはこれと同時に精神的な動揺が起こっていた。それは従来通り学校教授ととして生涯を捧げるか、若しくは辞して文筆により社会に貢献すべきか、この二つの道に迷い始めたのである。当時既に文筆で飯の喰える自信を持っていたのであろう。そこで、穂積陳重に相談を持ち込むと「君の天稟はむしろ筆にある」と云われたので初めて決心がつき、24年4月、7年間の学校生活から足を洗って書斎に籠もることになった。時に建樹は35歳であった。

 当時我が国の文壇は新しい胎動期に入っていた。盛んに文芸雑誌が創刊され、それに依って各作家が作品を発表する。24年には「早稲田文学」が誕生し繁野天来、三木元遊などが主に筆を執り、26年には「文学界」が声をあげて島崎藤村、北村透谷、馬場孤蝶、戸田残花、戸川秋骨、平田禿木、星野天知等がそれに依り、28年には「帝国文学」が発足して、大町桂月、武島羽衣、塩井雨江、大和田建樹の存在が注目を引いた。更にこの時代には文芸結社と称する新しい団体が生まれた。則ち硯友社や浅香社などがその例である。

 硯友社は彼の尾崎紅葉を盟主とし、同人として山田美妙、石橋思案、川上眉山、江見水蔭、巌谷小波、広津柳浪、丸山九華などが集まり、各々小説を書いた。紅葉は30年1月から読売新聞に「金色夜叉」を連載して一躍文名を謳われるようになり、後に門下からは泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、押川春葉、山岸荷葉などが輩出して名をなした。浅香社は歌人の団体で26年落合直文を中心として組織されたものである。与謝野鉄幹、久保猪之吉、服部躬治、塩井雨江、金子薫園、尾上柴舟等が会員として加わっている。これらの外に坪内逍遙、幸田露伴、森鴎外、夏目漱石、正岡子規などが脚本に、小説に、俳句に各部門に亘って実に多士済々、力強く台頭しかけている。建樹は斯うした時代を背景として文壇に第一歩を印たのであった。

 建樹の得意ともいうべきは紀行文、韻文、和歌、新体詩、唱歌詩で何れも独歩の境地を拓いていた。殊に旅行は三度の飯よりも好きで、全国に足跡を残すこと54回、それが悉く紀行文となり、韻文となり、或いは新体詩、和歌となって発表された。

 35年8月6日には郷里宇和島にも帰省している。丸之内石崎庄吉の別邸(現吉田茂氏所有=ママ)に2週間滞在して旧知との会合を楽しんだり、和霊大祭に詣でたり、高等女学校で講演をしたり、沖遊びに興じたりしている。それが直ちに「宇和島日記」「むかしと今」の紀行となって描かれている。文章は牡丹のような絢爛華麗さはないが、それに反して山萩の如き平坦清楚、豊かな気韻と高い品位とがあった。然も新詩体に至っては新しい形態の道を開いた事を忘れてはならない。

 これは足跡の大なるものであった。由来詩は「新詩体抄」が創始と云われるが残念その詩調は硬直であり、蕪雑であって読む者にはなかなか解し難いうらみがあった。すなわち作者の一人よがりに類するものが多かったのである。しかるに建樹はこの流儀を排し「詩は誰にでも読まれ、而して愛されるものでなくてはならない」という基調に立って新しい形態を採ったのである。例えば「いざり火」に収められている「故郷の空」の如き

 夕空はれて秋風吹き
 月影おちて鈴虫鳴く
 思えば遠し故郷の空
 ああ我が父母如何に在す
以下数節。同じく「海のあなた」の如く
 いざり火遠く見えそめて
 沖より寄する暮の色
 なかば夢より過ぎ去りし
 旅の月日も今幾日
 ああ恋しき海のあなた

以下数節。何れも建樹の代表作とは云えないが、平明にして風趣に富み然も胸を打つ。これがために広く一般に愛唱された。彼の文芸評論家本間久雄はその著「明治文学史」に
 「この意味において建樹は新体詩史上逸すべからざる人物の一人である。山田美妙の作品と共に特記さるべきものだ」
と評している。これによっても当時建樹が詩壇に如何なる地歩を占めていたかを知ることが出来よう。

加えて唱歌の作詞は建樹の独壇場でもあった。当時の唱歌は多く低俗、口にするには不適当な憾みがあった。建樹はこれを健全にして清新化した者の一人である。従って全国の教育者はその良識によって一般の生徒に普及させた。これがために作詞の多くは全国的に流行した。
「来たれや友ようち連れて」
などは特に人口に膾炙(かいしゃ=良さが世間に知れ渡ること)した。有名となった作詞は例の「鉄道唱歌」である。これは明治33年、44歳の円熟期における作品である。

鉄道唱歌が作られた経緯− 大和田建樹 その二

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