日本酒精と大宮庫吉

宇和島市名誉市民・大宮庫吉(おおみや くらきち)

「宇和島市誌」・「新愛媛」出版「南予の群像」・神戸市在住、木下昭南の著書から抜粋、引用。
(2005年11月30日更新)

「日本酒精」と大宮庫吉

明治37年、日露戦争が始まると国内のアルコールの需要は急速に伸びた。戦争で使用する火薬の原料としてである。その頃国内にはアルコール工場は数ヶ所しかなかった。増産に増産を重ねても供給が追いつかない。国内での不足分はドイツから輸入していた。そこに目をつけて宇和島に「日本酒精」が出来た。軍需景気にのり生産をしたが、戦争が終わると供給過剰の時代になってしまった。おまけに台湾から糖蜜を原料とした、安くて良質のアルコールが入り始めた。
 この閉塞状況を打破したのが、「日本酒精」が開発した新式焼酎である。(この頃に社名をアルコール工場の「日本酒精」から「日本酒類」に変更したことが考えられる。)

お断り・最近神戸の木下昭南氏」から頂いた資料によれば、「日本酒精」「日本酒類」の会社創立時期が従来宇和島で語られていた時期と大きくずれていることが判った、一般的な記録では「日本酒精」は「鈴木商店」に買収されたあと社名を「日本酒類醸造」として新たに創立したことになっているが、大きな誤りである。木下昭南氏の調査では、明治43年頃にすでに福井社長の時代に、社名を「日本酒類醸造」に変更していたようである。従って下記の文章において、誤りが多数でるばかりか、愛媛百科事典、商工会議所七十年史なども訂正する必要がでるかもしれない。詳しい事が判れば本サイトの文章も訂正する。(平成17年11月16日記載)

 明治19年(1886)4月1日、宇和島市竪新町漁具商「京屋」井上宇平の三男に生まれる。四歳で父、五歳で母と死別。親類の米屋大宮家の養子になった。幼い頃から苦労を重ね、小学校に通いながら行商も手伝ったそうである。

 明治40年(1907)に日本酒精に入社。大正5年、京都伏見の酒造会社「四方合名」に新焼酎製造技師として招かれる。以来酒造業一筋。昭和47年1月19日病気のために逝去、享年85歳。昭和44年6月23日宇和島市長は市議会の同意を得て、伊達家11代当主伊達宗彰氏とともに名誉市民の称号を贈る事を決定。同年11月3日に名誉市民贈呈式をとり行った。宇和島名誉市民第一号である。

宇和島市誌より〜
宇和島名誉市民 大宮庫吉 明治19年4月1日生
略歴および事績
 幼少より刻苦勉励、不撓不屈の意志をもち、日本酒精株式会社に入社、独力修得した技術と鋭敏な頭脳を十二分に発揮して、今日の宝酒造の四方合名会社に招聘さる。以後卓絶した技術と経営手腕は、一技術者にとどまることなく宝酒造株式会社第三代の社長に就任。昭和26年(市誌には36年とあるが誤り、ついでながら不撓不屈の熟語が市誌では不屈不撓と書かれてあるがこれも間違いである。これは木下昭南氏からの指摘で判明した)会長となる。この間日本酒造界のみならず各方面にわたり活躍。その功績はまことに偉大なものがある。
 日頃から郷土宇和島の発展を祈願し、2500万円の巨費を寄付し、これが基となって市公会堂が建設され、社会福祉並びに市民の文化及び教養娯楽施設として大きく貢献した。また和霊公園噴水施設費として多額の寄付をおこない、市民に憩いと安らぎの場を与えた。

 これを読んだだけで大宮庫吉氏が宇和島を後に京に上ってからも、郷里に対して如何に経済的に貢献されたかお判りであろう。
 今は取り壊され、南予文化会館が建っているが、公会堂=大宮ホールという想い出が残っている。私はその程度の認識しかなかった。恥ずかしながら大宮氏が篤志家として文化的な行為を数多く行われた事を知ったのは最近の事である。

宇和島和霊公園にある、大宮庫吉氏銅像を見る。
http://user.shikoku.ne.jp/tack7/saikin/03-01/03-01.html



(昭和46年11月に宇和島商工会議所から発行された「宇和島商工会議所70年史」では「鈴木商店」に買収された会社が「宇和島酒精」なるものとして文字が出ている。いろいろ調査してみたが、これは明らかに「日本酒精」の誤りであろうと思われる。こういういい加減な記述が後世混乱をきたす原因になる。あと10年も経過すると、実在していない会社が、会議所の年史に出ていたから間違いないだろう、と引用されるかもしれない。そうして間違った歴史がねつ造されるのである。

誤りに関して。追加

「宇和島商工会議所70年史」
には宇和島の工場で製造された製品の中に「ダイヤ印焼酎」という文字が見られるが、「ダイヤ印」は、九州の大里工場で鈴木商店が宇和島の日本酒類を買収する以前から作られていた商品で、宇和島工場で作られたものではない。

この間違った記述は浅井伯源著「宇和島大観」とうり二つである。
精査もせず「丸写し」して原稿料だけせしめたものと思われる。
また、「日の本焼酎」「日之本焼酎」と「の」を漢字で書いているサイトを見かけるが正確には「日の本焼酎」である。更に正確さを求めれば、「酎焼本の日」である。
これは勘違いをしがちだが、横書きではない。欧文が左からの横書きであるため、右からの横書きだと錯覚するが、一行一文字の縦書きである。

【平成17年11月】
鈴木商店が買収する以前に、すでに「日本酒精」の社名が「日本
酒類」
になっていたことが判明した。国会図書館の資料から、大正元年にはすでに「日本酒類株式会社」となっていることが判明。ついでながら、鈴木商店が買収した後、大正14年第一次合併で、九州の肥後酒精などを吸収して、そのときに社名を「大日本酒類醸造」に変えている。



この頃の宇和島地方の醸造技術者

 参考ながら同じ頃、吉田町の小西三郎は地元で、アルコール製造の先駆者として工場を経営していた。しばらくして閉鎖し、台湾の斗六などで工場建設をしたり、鹿児島川内でアルコール製造の指導をしていたが丸亀小六の招聘をうけ、大正7年、広島県廿日市に設立された「中国醸造合資会社」に製造責任者として赴任した。

当時の職員の「最高給」が25円の時代、小西は月俸130円という破格の優遇を受けている。小西三郎にしても大宮庫吉にしても、当時の日本では新焼酎の技術にかけて最先端の存在であったことは驚異に値する。
(中国醸造には小西とともに同郷の井上源太郎技師も同行しているという)

 さらに余談ながら、「日本酒精」には大宮の先輩にあたる宮崎静がいた。彼は宇治火薬製造所内の酒精工場でアルコールの技術を習得し、先述した小西三郎のもとで製造に従事した。宮崎は大正9年、台湾の実業家赤司の設立した大正製酒株式会社の東京王子工場長となる。なお、大正製酒王子工場は関東大震災で全滅し、昭和4年に宝酒造株式会社王子工場として再建する。

 ここで少し焼酎について触れてみる。下戸の私には日本酒と焼酎の区別がつく程度で、アルコールのことはさっぱり判らないが、大宮庫吉と「日本酒精」について語るときには、これを避けて通ることは出来ないであろう。

 明治30年頃に販売されていた模造焼酎について。

 当時販売されていた「模造焼酎」には二種類のものがあった。
 一つは、アルコールに水を加え、さらに全量の2%に相当する焼酎(粕取など)を加えたもの。その二はアルコールに単純に水を加えたものであった。 

 明治31年12月の混成酒税法その他改正により前者はそのアルコールに造石税(ぞうこくぜい=昔の酒税の一種、現在は廃止になっている)または輸入税が課せられ、焼酎には造石税が課せられる。そしてその製品は混成酒とみなされたのでさらにアルコールと焼酎の合計数量に対して混成酒税が課税された。それに対して後者にはアルコールに造石税または輸入税が課せられるだけとなった。その製品は希薄酒精であって酒類とはみなされなかったのである。最初は前者が後年の新式焼酎として登場し、更に時代が進むと後者が新式焼酎の代表になったわけである。

「日の本焼酎」発売される

 明治43年頃、宇和島の日本酒精株式会社が酒税法に、「焼酎とは酒粕を使用し蒸留したもので、度数は30度、35度、40度、45度の四種」とあることに着目し、酒精に水を混和し、それらの度数に薄め、これを焼酎として販売することを主務省に願い出て、百方
奔走の結果ついにその許可を得た。これは日本酒造界に画期的な出来事であった。

 しかし、それまでの焼酎を愛飲してきた消費者に受け入れられるかどうかが疑問であった。そこでいろいろ工夫をし、新式焼酎を旧式焼酎の味に似せるために、粕取焼酎を混和し、これを「日の本焼酎」と名付けて売り出したのである。(日の本焼酎のラベルではすでに日本酒類株式会社となっている)

 この「日の本焼酎」は供給が追いつかない程の大ヒットになった。これをみた他の酒精業者はわれ先に、この製法に転向していった。と同時に従来の旧式焼酎製造業者も新式製法に転換していった。
 詳しい記録は残っていないが、新式焼酎を開発した人こそ大宮庫吉たちであったのだろう。彼が宇和島で培った技術はここで世間の知ることとなった。

大宮庫吉、四方合名に招聘される

 この焼酎に目を付けたのが、京都伏見の「四方合名」であった。日本酒類にかけあって「日の本焼酎」の関東一手の販売権を買い取ったが、大正5年日本酒精は神戸の「鈴木商店」に買収されてしまった。四方では技師で工場長をしていた大宮を招いて、自社製造
に踏み切ることに決断した。

 これが後、宝酒造として日本酒造界で不動の地位を占めることになる、四方合名会社と、やがてその会社の会長になる大宮庫吉のターニングポイントであった。
 彼が生涯郷里宇和島に対して様々な配慮を残してくれたのは、そこが単なる出身地であるだけではなく、その後の彼を育てた場所として彼の心の中に占める大きな存在であった
のだろう。それも彼個人の努力もさることながら、彼を立派な技術者として育成した、大勢の先輩たちがいたからではなかろうか。(後述になるが、彼が篤志家として様々な行為をなすとき、必ず名前を伏せていたようである。郷里宇和島に「大宮ホール」という名前の付けられた公会堂が建設されたり、和霊公園の片隅に銅像が建立されたことを神戸の木下昭南氏に連絡した時、氏からは即座に大宮の故郷に対する気持ちの中には、単なる郷愁ではない恩恵のようなものを抱いていたのではないか、というご指摘を受けた

 鈴木商店から買収の話が持ち上がった時、大宮はこれを機に独立も考えて、特約店作りのために九州を回っていた。四方からの招聘の話は降って湧いたような話であったが、条件的には悪い話ではない。大宮を育てた「日本酒類」の社長福井春水も四方に入ることを勧めた。大宮は四方に行くことにした。最初は五年の契約であったらしい。年俸1500円、外に年間純益から清酒とミリンの益金1万円を引いた残額の十分の一、という好条件であった。大正5年4月大宮は四方入りを決意した。

日本酒精、買収される
宇和島の「日本酒類」(福井春水、資本金10万円)は大正5年、神戸の鈴木商店に買収されてた。鈴木商店は「日の本焼酎」と「日本酒類」の名前が欲しかったのであろう。その後全国の工場を多く買収して、資本金500万円、本社下関とし、宇和島工場となった。大正7年8月の米騒動では宇和島の「日本酒類」が焼き討ちにあったことはよく知られている。

 大宮を迎え新焼酎製造を始めた四方合名は、大正14年宝酒造株式会社となった。大宮は入社10年を経ずして常務取締役になる。幾多の苦難を乗り越え大正15年には、一度は四方を買収しようとした「帝国酒造」を逆に買収している。大宮は昭和20年12月社長に就任。昭和25年度日本の資産家ランク第15位になる。26年には会長となったが、これは酒造業が国税局の監督下にあったための対応のようである。監督官庁からの天下り人事を受け入れざるをえなかったようだ。

 その後昭和39年11月に社長に再就任。41年3月にまた会長になっている。
 経営の能力と文化に対する貢献は偉大なものがあったが、彼は子宝には恵まれていなかった。長兄友太郎の二男礼次郎を養子にしたが死別。つぎに三男一良(かずよし)を養子に迎えたが、太平洋戦争末期陸軍操縦見習学生のとき仙台飛行場でグラマンの機銃掃射を受けて戦死している。
これもまた不思議な事で、あと数日で敗戦を向かえる昭和20年8月10日、空襲を受けた仙台空港で戦死したのは一良ただ一人なのである。

 大宮の経営者としての手腕は、周知の事実だが、単なる経営者でないことはその腕を買われて四方に招聘されたことでも判る。しかも焼酎の技術だけではなく酒全般に対する知識は幅広いものがあった。
 昭和24年4月には、ダイヤモンド社から、ダイヤモンド選書「酒類」という400頁を越える学術的な専門書を出している。

大宮町という町名について

 現在宇和島市東部の旧北町、丸穂の一部に「大宮町」という名前の町がある。角川日本地名大辞典によれば【昭和41年〜現在の宇和島市の町名。1〜3丁目がある。もとは丸穂(まるお)・北町の各一部。住居表示実施により成立。町名は、江戸期に善政をしいた庄屋大宮氏に由来する。】と書かれてある。しかし私はこれは行政が、大宮庫吉氏に対しての感謝の気持ちを表したものではないかと愚考する。
 銅像は作られてはいるが、これは大宮の本意ではなかったであろう。寄付行為ですら自分の名前の出ることを拒んだ大宮に取っては、取り巻きが銅像を造るという気持ちに対しては必ずしも愉快なことではなかったのではないだろうか。公会堂のホール名にしても、いつかは姿、形のなくなる時機が来ることを見越して、命名を承諾したのかもしれない。その大宮の気持ちを考慮して、直接庫吉とは無関係ということで、庄屋大宮の名を付けたのではなかろうか。この命名の真意について市役所に問い合わせてみたが、明確な返答を得ることはなかった。

大宮庫吉と京都国立博物館ロダン像購入の件

 大宮庫吉が、高額所得者であるとか、宇和島市に多大の寄付をして公会堂が出来たという話は、子供の頃に聞いてはいたが、神戸在住の木下昭南氏から、ロダンの像の話を聞くまでは、私の中ではたんなる宇和島出身の成金の一人にすぎなかった。

 ロダンの「考える人」が数奇な運命のもと、京都国立博物館に収まるまでの膨大な資料を調査され、それを門外漢の私が読んでも興味をそそられる文章にされた木下昭南氏の記述を読んだ。古くは松方正義、松方孝次郎の名前が登場する。名前は聞いたことのある「松方コレクション」の経緯。ロダンと日本との関係など興味は尽きなかった。そこに大宮庫吉が大きく係わっていることを知った。

 そもそもある経緯でロダンの像3体が神戸の資産家松浦の手許に入った。「アダム」、「イヴ」、「考える人」の三体であった。そのうち「イヴ」像は戦後詐欺にあい、松浦に代金が支払われないまま昭
和24年、国立博物館(現・東京国立博物館)に収められた。松浦の文化に関する考え方は「人類の共有財産である」というものであったようである。これは戦時中に松浦卓の父、松浦丹平がこれらの
像の供出を○○社という某団体から迫られた時
「儂はこの戦争に、不協力などと一度も考えたことはない。ただし人類の共有文化遺産に等しい、あれらの彫刻を鋳つぶすことは絶対にやってはならんこ
とと思っている……」
と拒み、戦闘機を三機献納した話をしたという。物の価値を知っている人物とそうでない人間の違いである。

 途中はかなり入り組んだ経緯で省くが最終的に「考える人」はそれまでの所有者松浦卓の手を離れ京都の国立博物館に置かれることになった。売却ではなく預ける形であった。その後関西大学がその像を1000万円で購入したいと言う話が持ち上がった。
その話を聞いた高山京都市長は、芦屋の松浦を訪ね、どうかこのまま京都に置いて欲しいと頼んだ。ロダン像の要望は、この他にも神戸市としても地元に置きたいという計画があったという。松浦は苦慮したあげく、関西大学の提示した1000万よりも300万安い価格で京都に置くことに決めた。が、関西大学への売却の白紙撤回をするため、松浦は多くの関係者に詫びてまわることになる。

 京都に残ることが決まった「ロダンの像」であるが、京都市の予算は200万不足していた。この話を聞いた大宮は京都の文化のためにと、不足額の分をポンと私財をはたいてくれたのである。

この話を知った木下昭南氏は当時中学生であった。子供心にも文化に対しそのような行為をした宝酒造社長・大宮庫吉に感謝と畏敬の念を抱いたという。

篤志家大宮庫吉と木下昭南

 大宮が寄付をしようという話は、この一件が始まる前に新聞に載っただけらしい。その後話はかなり複雑に絡んでしまい、大宮の寄付の話はその後には全くニュースにもならなかった。京都の市民は誰も経緯を知らなかった。事実を知っていたのは一部の関係者だけであった。大宮庫吉は売名行為の嫌いな人であったらしく、この話が公になることを避けていたらしい。
 その後大宮の意志通り、博物館の史誌に載ることもなかった。だが、逆にその記録のないことを訝しく
思った木下昭南氏は、真実を記録することも大切なことであると考え、記憶を頼りに関係者を回り、その事実を記録することに努めた。

 大宮の篤志家としての話は尽きない。

 多くは秘されているが、元京都市長高山が国立京都国際会館館長時代に「大宮浩堂翁を偲ぶ」という本の中に原稿を依頼されたおり「大宮さんへの想い出と感謝」と題し、『競輪廃止の後1千万円を投じて「子供の家」を寄付した話(昭和38年頃)や、諸外国の貴賓が京都を訪れた際、大宮家の庭園を開放して歓迎会を催した話』などを書いてしまっている。

以前、ここで「西京極球場」のナイター設備の事を書いたが、これは精査の結果、小林阪急社長、松下幸之助、の二名が京都市
とそれぞれ三分の一の金額を負担したもので、大宮は関係がなかったようだ。


 したがって、くどい話になるが、宇和島に「大宮ホール」と名付けられた建造物ができたことは異例のことなのである。ましてや銅像などがあるとは木下昭南氏も驚いておられた。宇和島には銅像がありますよ、と答えた私に木下昭南氏は驚いた様子で、「銅像言うたかて、胸像でっしゃろ」と聞き返した。全身の像だと答えると、木下昭南氏はさらに驚いたようであった。
 「大宮ホール」に関しては次のような話を聞いたことがある。大宮は当初椅子が固定されず、広い床が使えるものを望んでいたらしい。それが通常の劇場のように椅子が床に固定された、ただの会場になったことには不満だった、ということである。田舎の人間と都会の人間の思考の違いか。

 最初私は誤った先入観から、買収後に社名を変えた、と思っていた。その後、神戸の木下昭南氏から様々なご教示を頂きようやく正しい記録に近づいた。神戸の木下昭南氏並びに同じく多くの情報を頂いた、宝酒造の I 氏に感謝する。



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