宇和島藩五代藩主・伊達村候(むらとき)

 歴代宇和島伊達藩藩主の中でも、とりわけ著名なのが幕末の日本史登場し、四国の小さな藩ながらも、日本の四賢侯の一人として名を残す八代目藩主、伊達宗城侯である。

彼は動乱期という、政治的時代背景の中に登場し、その資質が折柄の歴史の流れにうまく活きることが出来た。
しかし、歴代藩主の中には、彼に劣らず傑出した藩主がいた。

宇和島伊達藩五代目藩主、村候(むらとき)もその一人である。

現在では、伊達家の本家仙台と、四国の片田舎宇和島では歴然とした格差がある。比較に及ぶ迄もなく都市としての機能、知名度、文化習熟度には宇和島は足下にも及ばない。姉妹都市とはいえ宇和島としては、コンプレックスを抱いて当然の差がある。

ところが、伊達藩創設期においては、意外に仙台は本家ながらも長らく宇和島藩に対して、全く逆の立場であったようだ。その原因は、嫡子と言えども、宇和島初代藩主伊達秀宗は、れっきとした政宗の長男である。仙台ではしばらくのあいだ、宇和島に対してはかなり遠慮した対応があったようである。

それが仙台宗綱の三男宗贇(むねよし)が、宇和島二代藩主宗利の養子となり元禄六年(1693)に宇和島三代目藩主になり、また村侯は仙台宗村の甥に当たるため、次第に仙台藩の宇和島藩に対する遠慮が無遠慮に変わり始めた。臣下のもの迄もが宇和島藩を末家の如く扱い始めたという。

寛延二年二月三日村候遠江守に任じ政徳と改名された。(この方は度々改名している)
この村候殿、仙台と宇和島藩の立場が変わったことにかなり憤慨したのか、旧代の先格総て吟味した上で、時の老中堀田相模守へ直訴を提出した。

旧代先格とは、世に十三ヶ条などと言うが、打揚腰黒乗物■に虎の皮鞍覆のこと。文通の様付けを殿に改めること。御防■(堤?)御用に日の丸の提灯を持ちうること。
提灯の紋割九曜を竹に雀の紋に改める事。等々総て仙台の通りに復旧したものであるが、これらはあくまでも形式的なことで、要は宇和島藩権威の証明である。

以来、村候は宇和島藩の権威を示し、仙台の大藩に対し、正嫡の権勢を示したものである。
この他に、村候侯に関しては、その茶目っ気ぶりを思わせる様々なエピソードが残されている。その中に次のような話も伝わっている。

 仙台家(江戸屋敷)へ諸大名参向の際は籠を表門に留めた。陸奥守が宇和島家(江戸屋敷)訪問の節は常に玄関前敷石十二枚目まで籠のまま乗り込まれた。確執決着の後、陸奥守は政徳(村候)を招待されたが、政徳(村候)は籠の者に言い含めて、仙台家に向かい、門番が何気なく門を開くと同時に、それっとばかり籠は威勢よく玄関前敷石八枚目まで乗り込んだ。門番は慌てて引き留めたので、然からばとここで下乗した。その後は遂にこれが格例となったので、仙台家の役人たちも恐縮して、門前の町人に至るまで知れ渡ったようである。

この一件は江戸の落首に書かれることになった。

◎仙臺を井伊々達られて陸奥かしくいらぬ家老のしわざなりけり。
     (言い立てられ) (むつ)
  こは此度の一件は内密大老井伊掃部頭の肝煎のよる所以である。
◎我がものと仙臺棒食すぎて糞をたれては伊達にならぬぞ。
◎此度は青山(宇和島藩屋敷)方の利運にて芝(仙台屋敷)のいほりもやけとなるらん。
◎陸の奥の塩やく浦のけむりにてたちし末家名をいかにつつまん。
◎勝手本家たゝましくも井伊伊達て遠江やれやむつがまけたぞ。

 宇和島藩中興の英主と言われ、藩校「明倫館」の始まりと言われる藩学「内徳館」を起こした村候のお茶目な一面を物語っている。

この話は、「鶴鳴餘韻」からの子引きであろうか。参考文献は久保盛丸著「南豫史」からである。

※「鶴鳴餘韻」(かくめいよいん)伊達宗陳が、藩祖秀宗入国三百年(大正三年)に際し、伊達家家記編■所に命じ、秀宗、村候、宗城の事績を中心に三巻の書のまとめたもの。古文書至上主義者に言わせるとくだらない文献だと言うが、読み方によれば、古文書を誤読するよりは遙かに参考資料になるのではないだろうか。


前にもどる

トップにもどる


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送