伊達宗紀(むねただ)


 伊達宗紀は春山と号し、宇和島藩第七代の藩主である。

 幕末の歴史の中でも全国的な名君と言われ、百歳の長寿を全うした。

 宗紀は寛政4年(1792)六代藩主伊達村寿(むらなが)の長男として宇和島に生まれた。明治22年(1889)に死去するまでの間、前期においては藩政改革に傾注し、幕末、維新期の宇和島藩の活動の基礎を作り、後期においては近代の伊達家経済の大計をはかった。また、第八代藩主伊達宗城とその側近の人材養成をした功績も大きい。

 文政7年(1824)宗紀が就封した当時、藩は財政難で、[萩森蔀](はぎもり・しとみ)の事件、その後の「国益」論争、農村の救済策など、多難な問題を抱えていた。宗紀は櫨鑞の積極的な専売制度の実施、質素倹約、魚類の五歩一銀運上の改訂、借金の無利息二百年賦返還(1年に銀93貫宛)などの改革を文政年間に行い、藩政の再建に成功した。幕府の「天保の改革」が始まると、これにあわせるように、全面的に殖産興業策を打ち出した。

 藩士小池久蔵・若松総兵衛に佐藤信渕の経済学をま学ばせてこれを応用して、融通会所を開設し、商業の繁栄と統制(資本米500俵)をはかり、領内の見地を行い、また物価対策をたてた。

 弘化元年(1844)養嗣子・宗城に封を譲る頃、藩には「保字小判」6万両が蓄積されていたという。木綿・塩・するめ・蝋の座を起こし、藩財政は小規模ながら黒字となった。このことは宗城の多難な政治活動と富国強兵政策の経済的補償となった、

 宗紀は隠居後も将軍継承問題については井伊直弼を説き、ペリー来航に際しては、無謀な攘夷をさけ、実質的な日本の「独立独行」を可能にする貿易、近代兵器の購入、政治改革を幕府に献策している。

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