関西の実業家・土居通夫伝
その2

津村寿夫著「宇和島の明治大正史」より

以下はほぼ原文に忠実に記す

 程なくしてまた上阪、五代才助の統括する大阪運上所に勤務することになった。これが官吏となった最初で
ある。明治2年(1869)1月には大阪府外国事務掛、9月には大阪府権少参事に栄進した。先に妻を失った
彼はこの年宇和島藩士高間八太夫の長女美名子と華燭の典を挙げた。この時花嫁は僅かに14歳であっ
た。その美名子も晩年通夫に先立って死去している。

 翌3年6月には正七位に叙せられて鉄道掛となった。理由は東京−新橋間の鉄道敷設工事が終わったの
で、次は大阪−神戸間の工事に着手する。それには事情の明るい地方官を鉄道掛に起用せねばならぬとい
うことであった。通夫は処を得て喜んだことは勿論である。

 明治5年6月には従来土肥真一郎、あるいは土居真一郎と出鱈目な姓名で通していたのだが、役人となっ
てはこんな出鱈目では駄目である。そこで初めて「土居通夫」と正式に決定し、宇和島にある神山県庁に届け
出た。

 その頃通夫は参議大隈重信の長屋を借りて居住していたが旧知の木下伝内、北畠四郎が相前後して来
し、司法省入りを頻りに進めてくれる。北畠の如きは既に司法卿江藤新平の諒解を得ているという気の早さで
ある。通夫も心を動かされて東京裁判所の七等出仕で聴訴課勤務となり、続いて権少判事となった。司法省
では意外にも児島惟謙に遭遇し、小西家にいた頃やその他故郷の思い出話に花を咲かせたものである。

 通夫はその後大審院詰、大阪控訴院詰となったが、時代の流れに着眼して辞職、野に下った。期間が短か
ったたので司法官としては名を残すには至らなかった。

 当時の大阪府知事建野郷三は大阪実業界の不振を嘆じ
「かって天下に誇った鴻池さえも今は衰微の一途を辿りつつある。まことに寒心に堪えない状況にある。今日
より商都としての活路を啓(ママ、ひら)き、これを永久に維持しなくては悔を百年の後に残すは必定である。つ
いては君の知恵と力量とによって、実業界挽回に努力して欲しい」
と談じ込んできた。
すると通夫は
「僕は長らく役人をしていたので実業方面の智恵は枯れている。しかし役人を辞めた以上商売人となる意外
には飯を食う道はない。今後お互い努力して『大大阪建設』のために努力しようではないか」と答えた。

 而して第一に足を踏み入れたのが鴻池家の顧問たることであった。鴻池の財産はまだ腐っても鯛である。
此処に顧問の地位を占め財閥を背景に持ったことは企業その他何かにつけて便利であったことは言うまでも
ない。而して通夫が最初に手をつけたのが大阪電燈株式会社の創立であった。それが明治20年12月認可
となり、2年後の22年5月には早くも工事が完成して市街には初めて電灯がつくようになり盛大な祝賀式を挙
行した。東京では約10年前に送電が開始されていたから、大阪は全国で二番目と言うことになる。

 通夫が大阪商工会議所の会頭となって後は更に強い指導力とその実行力とを以て市発展のために勇往邁
進した。恰もこれに前身を傾倒しているかの如き観があった。下記は明治29年現在における実業家としての
地位を示すものであるが、この事実によっても既に大阪市実業界の先駆者となっていることが判然としてい
る。
一、大阪商業会議所会頭
一、大阪鴻池顧問
一、大阪電燈株式会社社長
一、明治紡績株式会社社長
一、大阪商工協議会委員長
一、大阪堂島米穀取引所理事長
一、大阪実業銀行頭取
一、大鶴鉄道株式会社創立委員長
一、日本生命保険株式会社取締役
一、日本海陸保険株式会社取締役
一、日本共同銀行取締役
一、伊賀鉄道株式会社取締役
一、大阪毎日新聞相談役
その他団体の「長」などを合わせると三十余種に達している。
もやは堂々たる「関西の土居通夫」となっている。然もそれであって精力は絶倫で日夜休むことを知らない。
秘書が健康を心配して
「何処か静かな処へ行って静養されては如何」
とすすめると
「馬鹿をいうな、人生は五十年だぞ、俺は既にその年齢に達している。人間は働くために生まれて来ているん
だ、遊んだり寝たりしているとその時間だけ損をする」
と返って叱りつける始末である。これが彼の哲学でもあった。

 その彼が27年の第三回衆議院議員選挙には大阪第二区から出馬して当選している。伊藤内閣時代のこと
である。これより先、第二回選挙の際にも大阪府の書記官なるものが来て出馬をしきりにすすめたが

「商売人が政治などに関係してどうなるのだ」

と拒絶した。27年にも各方面から立候補の担ぎ出しに来る。最後には断り切れなくなって出馬の羽目となっ
た。この時には大阪朝日新聞社長村山竜平も第四区から当選している。

 しかし内閣不信任問題で伊藤内閣は議会を解散したので通夫の代議士としての寿命も僅かに三ヶ月に終
わった。

「道草の期間が短くてすんだのは何より幸せだ。商売人には政治などは縁のないものだ」

とかえって喜んだ。その後如何なる場合でも辞退して出馬しなかった。
30年には会頭に再選、33年には64歳の高齢でありながら殆ど全世界の視察旅行に出かけた。海外の知
識をひろめるためである。36年には大阪で産業博覧会を挙行。39年には宇治川水力電気株式会社を創
立。これが終わると73歳でこんどは支那、朝鮮(ママ)の全土に亘って視察の旅に出かけた。精力の絶倫さ
には驚くばかりである。

 然るに大正6年、通夫は81歳となったが遂に健康を害してしまった。医師が診察すると胃癌の症状があ
る。勿論本人には告げない。彼は「湯にでもつかっていれば治る」といって初めて休養する気持ちとなり有馬
温泉へ転地することになった。

「俺の静養は80年目だな」

と側近のもの達に語って自ら笑った。病気が病気だけに依然として良好にはならない。本人は今に治る治る
と自信たっぷりの様子であったが、周囲の憂色は日を追って濃くなるばかりである。
どうせ駄目なのなら大阪で死なせたいという家人の希望もあり、医師も大阪の方が治療の設備も整っている
と称して無理に連れ帰った。
嗣子剛吉郎氏夫妻は絶対安静を理由に見舞客にも本人には一切会わせない。9月4日には食欲こそなかっ
たが、痛みは軽くなり、機嫌も良かった。そこで家人に硯箱を持参させ自ら

 長引けど糸瓜は無事の姿かな
 気を長く持てと糸瓜の見舞いかな

と即吟を書いた。これが絶筆となった。

9月8日夜半には俄然病勢が昂進し危険の度を加えるばかりとなった。そして大正6年(1917)9日午後3時
50分遂に不帰の客となった。
朝廷からは従五位勲三等の御沙汰を賜った。葬儀は9月17日午後2時から四天王寺本坊において仏式で
営まれた。

 大正13年には嗣子剛吉郎氏が養父を追慕して「土居通夫伝」を出版した。八百余頁の大冊であるが、これ
には最初彼の須藤南翠が筆を染めた。然るに彼は中途において物故したので他の者によって編纂を完成さ
せた。
その題字には渋沢栄一が「強志力行」清浦奎吾は「通和温雅」と書いている。
何れも通夫の性格を表現しているものであった。
殊に前述の如く穂積陳重博士の序文にあるように

「君は寛容の人であって能く人を容れ、よく言を聴き、円満事に処し、協調苛くも破らず、これ衆望君に帰して
終身財界の重任を膺うさせた」のである。

 実業家としての土居通夫はこんな人であった。

【管理人所感】
 作者の津村寿夫氏は、独特の文体で、時として煩わしさを覚えるほど、講談的な表現がある。
 例としてあげれば、頻繁に現れる「彼(か)の〜」「而(しか)して」「然(しか)るに」など、ついつい時代がかっ
た表現に反発を覚えながらも、それはあくまでも細部の表現手法であり、本文全体に流れる津村氏の史実を
伝え残したい、という気持ちが強く伝わり、出来るだけ原文に忠実に表記した。

 若い人には読みにくい文字、表現があると思う。私の誤記があるかも知れないが、これくらいは読んで欲し
いと思い、あえてふり仮名をつけなかった。

 こうして、土居通夫の人生を見ると、彼の生き方は同じ商売人とは言っても、あの「商売人―松下幸之助」と
は全く異なるように感じられる。

 本物の商売人と銭の亡者との違いであろうか。私は本物の商売人は人に喜んでもらう仕事をした結果とし
て利益をえる人だと思っている。
 政治家で言えば、高知県出身の吉田茂に似ているのではないだろうか。土居通夫はあれほどの実業家で
ありながら、宇和島にはそれほど、と言うより、私の知っている範囲では何一つ貢献していないように思われ
る。誤解されると困るが、それが悪いと言っている訳ではない。

 日本第二の都市大阪の基盤のために実業家土居通夫は活躍した。好き嫌いは別として、高知県出身の宰
相だった吉田茂は、戦後の日本復興のために政治を行った。故郷への貢献などしていないだろう。彼にとっ
て一つの県の事よりも日本全体の事が大切な事であった。そのため未だに日本でも貧しい県の部類に入る
高知県であるが、何処かの成り上がり大臣の如く、地元への利益誘導で代議士になり私腹を肥やす連中とは
流石にレベルの違いを感じる。

さらに追記
私はうっかりして長らく「商工会議所」と書いたままにしていた。日本に商工会議所法ができたのは昭和27年
であり、それ以前の大阪の会議所は「商業会議所」であった。訂正していなかったことに気がついてあわてて
訂正をした。

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