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人を威圧する猛々しい表情。千代の富士によく似ている。 |
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推定で年代順だろうと思う順番に並べてみた |
土居通夫は関西における実業界の大立者であり重鎮であった。
今日の大阪を発展させた基礎は彼がその道一筋に邁進、精魂を傾けた処が多いと称するも敢えて過言では無
いと思う。
「土居通夫伝」の序文に同郷の穂積陳重博士が筆を執っているが、先ずそれを読んでみれば如何なる人物で
あったかの輪郭が明らかになるのでここにその一節を拉し来って参考にしておきたい。曰く
「大阪は本邦商業の首府である。故土居通夫君はこの商業の首府において商業会議所の長たりし人である。
君が選ばれて会頭となるや本邦の国威まさに宇内に発揚せんとし、商工百般の事業漸く勃興の機運に向かわ
んとする黎明期であった。爾来会頭の改選ある毎に継続重任し、高齢身を終わるまで関西実業界の枢機を握
ること二十有三年、その間大阪における商工業は顕著なる発達をなし、船舶に、工場に煙突海陸に林立して煤
煙空をおほい同府をして宛然米のニューヨーク、英のリバプール、仏のマルセイユ、独のハンブルグの如く、政
都以外の商都たらしめたのは君の指導画策また興って大いに力があったのである。故に君は本邦実業史中の
公人である。大阪発展史中の公人である。この公人の事績を永く後身に伝うるは孝子追慕の一家事ではない。
知人友愛の一私事でもない。本邦実業史料保存の一公事である。
―中略―
君は先見の人であった。君が時勢を洞察するの明は維新前四年、南海の僻陬に在って夙に大局推移を予見
し、当時の厳制を犯し蹶然藩を脱して大阪に赴いたのは、謂わば幽谷を出て、喬木に遷ったものであって他日
財界に雄飛するの基田を作したものである。君が封建階級の制尚盛んなるの時に当たり、剣を捨て牙籌を事と
したのも、社会の趨勢を予知して他に関西の商機を握るの素質を養うためである。君はまた寛宏の人であっ
た、能く人を容れ、能く言を聴き、円満事に処し、協調苟くも破らず、是れ衆望君に帰して終身財界へ重任を膺
らしめた所以である。先見の明、寛大の質、この二特徴は君の偉器を成就せしめたものである。
―以下略―
これに依っても通夫の真価を知ることが出来るであろう。
その通夫は天保8年(1837)4月、(宇和島)藩士大塚南平の六男として元結掛(もっといぎ)に生まれた。彼の
児島惟謙とは同じ歳である。幼名を保太郎と呼んだ。五歳の時松村彦兵衛にもらわれて養子となったが、元来
小禄で貧乏をしているため、師を選んで学問をする事が出来ず、自ら他家の米つきなどを手伝って僅かな収入
で苦学をした。通夫の没後嗣子の剛吉郎氏は「土居通夫伝」を公刊したが、その口絵に彼の南画家富岡鉄斎
の筆によって童児が米搗きを手伝っている風景を描き、それに宇和島の学者左氏珠山が賛を入れている一頁
がある。これは通夫の少年時代をしのばせたものである。八歳の時、佐伯町の医師某について字習いを始め、
続いて藩学明倫館の教授金子恥堂に漢学を修め、十二歳にして田宮流の剣道師範多都味嘉門の道場に入
り、十六歳の時すでに初伝の目録を受けた。剣客としての素質がうかがわれる。翌年元服して保太郎を彦六と
改名、事情があって御船手組中村茂兵衛の娘安子の入り婿となった。その妻は文久三年に死去したのでやむ
なく生家に帰った。
当時土佐の坂本龍馬が変名して宇和島に来た。武道の試合をした事は勿論である。その坂本龍馬は常に憂
国慨世、高邁卓越の弁舌を振るって相手を感奮させたそうである。通夫もその影響を受けて後に国家のために
志士と交わり活躍をするようになった。
文久三年頃には既に剣客となっている山崎惣六と共に武者修行と称して四国を遍歴、帰ってくると岩松村の小
西荘三郎方に雇われて家業を手伝う傍ら付近の青年に剣道を指南し、時には二組に分かれて対抗試合をさせ
る事もあった。この時代には彼の児島惟謙も小西家に同居している。以上が少年から青年となるまでの略歴で
ある。
万延、文久、元治となるに及んで天下の形勢は愈々険悪となり、宇和島に来て金剛山に晦巌を訪ねたことの
ある藤本鉄石も自ら中心となって大和で天誅組の義挙を起こし、長州藩では外国船攻撃の事があり、その他世
はまさに憂国の士たる者の袖手傍観が出来ない情勢となっている。
岩松の小西家を去った通夫は愛宕山にのぼって山崎惣六(後の初代宇和島町長か?)、松田重兵衛等十余人
が集まり宇内の形勢を痛論しその結果、山崎惣六、松田重兵衛の二人が脱藩して京都、大阪に至り、諸藩の
動向を探らせる事に決定した。二人は予定通り脱藩したが、途中で意見の衝突を来して物別れとなって終わっ
た。
通夫は同志の頼み難いのを知って今度は自分が脱藩すると決意。慶応元年6月宇和郡領内に剣道指南に行
ってくると称して宇和島を出発。7月18日には同志その他から貰った餞別五両を懐中に八幡浜から磯津へ赴
き、長浜に碇泊中の炭船住吉丸の便を借りて潜伏。海路25日間を費やして8月10日大阪に到着した。
先ず、商家の丁稚に化けたいと思って、飛ぶ鳥も落とすような豪商鴻池家を訪ずれ「自分は田舎から出てきた
者だが丁稚に使って欲しい」と頼み、先ず同家に住み込むこととなった。
その頃の風習は如何に大家であっても生活そのものは極めて質素で節約を旨としたものである。通夫が入居
した頃も副食代は一日二銭の賄い、一日と十五日の月二回は本膳が出ることになっていたがそれも名ばかり
で、焼き物は鰛(鰯)一尾という徹底したものである。生活様式如何は推して知ることが出来よう。
通夫の着物は木綿の縞物二枚だけ、それもボロボロになったのでツギだらけで我慢をした。余程の力持ちだ
ったらしく十三、四歳の丁稚を碁盤の上に乗せて平気でそれを持ち上げたり、或る夜の如きは他のものと一緒
に町に使いに出ると暗い物蔭から数名の「追いはぎ」が現れて所持品を奪おうとする。通夫は相手の襟首をつ
かんで投げ飛ばした。賊の残りはこれに恐れを抱いて一目散に逃げてしまったと言う逸話も残っている。
主な仕事は家賃の集金、家屋の繕い、壁の塗り替え等であったが、陰日向なくよく働くので、たちまち主人の
お気に入り、墓参の時やその他外出の折りにはいつもお供を命ぜられるようになった。店員として通夫は恵ま
れた境涯にあったが、彼自身には腹に大きな目的が在ったのである。というのは鴻池家は大阪屈指の大家で
ある。従って知名の士が多く出入りをする。幕府の今後の態度や志士の動向を探るには最も便利な家柄であ
る。機会を狙って形勢を詳にしたいと肝胆を砕いていたのである。
然るに慶応三年の春になると旧知の志士田中幸助から来簡、内容には「鴻池を辞して出てこい」とあった。
通夫は直ちにその気持ちになり、小さい柳行李一つを肩に京都木屋町近江屋喜一郎方に田中幸助を訪ねた。
彼は二階居住をしていた。それと同居する。
やがて金がなくなる。それを知った土佐の後藤象二郎は米塩の資を送ってこれを助ける。後藤象二郎は後に大
政奉還運動の第一線に起つようになった人物である。而して田中幸助の二階には毎日のように中村半次郎、有
馬藤太、岩下佐治兵門(ママ)村下下総、伊集院金次郎等が集まって天下を論じ、志士と結んで倒幕を謀議し、
同志を集める事を申し合わせる。この事実を佐幕派の浪士が探知する処となり身が危険となったので山階宮、
曇華院宮の付け人等によって淋しい南山城大住村の庄屋横井方に匿われる事になった。
その頃通夫は世を忍んで土居真一郎、または土肥真一郎と名乗っていた。
斯うしている間に天下の勤王論は益々盛んとなり、佐幕派の蔭は次第に薄くなりつつある。天下の形勢は漸く
順調である。それであるにもかかわらず土佐の傑物坂本龍馬と中岡慎太郎は京都で新撰組のため殉難する
(ママ)という事件が起こった。折柄将軍慶喜は大阪城を出て、会津、桑名両藩の兵を率い近く京都にのぼろうと
の情報を耳にした。
田中幸助と通夫の二人は秘かに大住村を抜け出して京都に駆けつけ、後藤象二郎を訪ね将軍慶喜に挙兵の
意志ある事を伝え、我々同志も対策を考えねばならぬと進言した。
すると後藤象二郎は「国事大変動の時代が来た。自分はこれに対処する道を考えるのに頭が一杯だ。この際
君等は静かにしていて貰いたい。その代わり君等に依頼したい問題がある。自分は万一の場合に処するため
金を用意せねばならぬと思って、英国と樟脳の取引をする約束をしている。その船が近く神戸に入港する。自分
は何うしても参れぬから、君等二人が行ってこの問題を解決してきて呉れ」
という使命を与えた。
二人は新撰組の張っている関所を言葉巧に通り抜け神戸に至り、使命を果たすことが出来た。
通夫が外国人と会ったのはこの時が最初である。
間もなく京都では鳥羽、伏見の戦いがあった。通夫が戦場を視察すると、嘗ての同志は傷ついたり、斃れたりし
ている者が多く、傷心の痛さを身に感じた。
彼の林玖十郎(宇和島藩士・推挙され西郷隆盛と並んで官軍参謀となり活躍)は通夫従来の苦衷を察し脱藩の
罪を許す事を配慮してくれ、そのおかげで宇和島にも帰る事が出来るようになった。
【管理人所感】
後世になって、鴻池家に入ったいきさつが、様々に取りざたされている。
きわめて常識的に考えれば、騒然となっている時代に、どこの風来坊とも判らぬ人間を豪商鴻池が身元の照会
もなく、すぐに採用することがあるだろうか、という疑問がおきてくる。ましてや、当時の政治的動きの察知できる
ような商家に身分を隠して入った、という事は、あらかじめそれなりの話が通じて居たのでは無いかと思われる。
特にここから数年が、脱藩してからの土居通夫の時代のなかで、一番闇に覆われた時期である。小説家司馬
遼太郎氏は「花屋町の襲撃」という短編小説で彼を暗殺者として登場させている。
ただし、あくまでも小説なのであるが、どうも世間一般では大家が一つの見方として、創作しても、あたかもそ
れが史実として錯覚する傾向がある。
書く側の問題ではなく、読み手のレベルの問題なのであろう。
私は後に彼が財界人として活躍したことを考えると、単純な行動主義者よりは、政治的活動を行ったのではな
いだろうかと考える。
坂本龍馬が仮に生きていれば、土居通夫のような人物になっていたかもしれない。
話がそれるが、山本周五郎の短編に正確なタイトルは忘れたが、宇和島藩主とその忠臣を描いた短編小説
があった。幼少の藩主に武術の稽古をしていて怪我を負わせた忠臣はそれを苦にして、家を出て山に籠もり、
許しがあってもかたくなに拒み、滑床あたりの洞窟に籠もって暮らす。やがてお家の一大事の話を聞き、自らが
犠牲になる、というような内容であった。
これを読んだある人から、まじめな顔で、滑床にそんな洞窟があるのか?と尋ねられた事があった。
フィクションもノンフィクションも、区別が付かないのだろうが、その人を別に批判する訳ではない。メディアそのも
のが、やらせと現実を混在させている時代なのであろう。
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