前原巧山

前原巧山(嘉蔵、のち喜市)は文化9年(1812)八幡浜で生まれ、天保9年(1838)宇和島の本町に来往した。父の死後、家業である回船問屋の没落後雑業に従事し、大阪で目貫師に学んだり、吉田で刻み煙草を作ったり、宇和島では仏具・具足・提灯屋などいろいろな職業を々とした。いわゆる器用貧乏な職人生活だったが、その中で宇田川榕按(ようあん)の「舎密開宗(せいみかいそう)」を読んでいたことは注目に値する。

 安政元年(1854)巧山は本町の豪商清家市郎左衛門から、伊達宗城の着想になる西洋式火車の研究を依頼された。巧山は網曳き用のじくろから発想して外輪車をつくり、これが宗城の目にとまって、二人扶持五俵の御船手出勤の身分となる。

 長崎へ三度も出張し、「バッテーラー」「マグネット」の構造を学び、蒸気機関や船体構造について意欲的に研究した。

 安政三年(1856)から翌年にかけて、鋳物の蒸気機関を作ったが実験に失敗した。さんざんの不評をかい、「おつぶし方」の異名をとった。そこで、当時蒸気船を建造中であった薩摩藩に研究に行き、ついに安政六年(1859)二月、蒸気船の試運転に成功した。小型で機関も弱い船であったが、薩摩藩についで日本人のてになる二番目の蒸気船であった。

 巧山はこの巧を賞され、三人扶持九俵・譜代の身分となった。
 巧山はこのほか、木綿織機、ミシン、砲台や小銃。雷管、藍玉、パンの研究にも異才を示した。明治に入り、野川で悠々自適の生活を送り、同25年(1892)、81歳で死去し、西江寺に葬られた。

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