蒋渕郵便局の誕生
明治34年12月16日開局
当時宇和島−戸島間線路は二挺櫓の手押し和船であった。
蒋渕から下波までの水路は手押一挺櫓の和船。下波から辰野坂を山越えで三浦西在所の三浦局ま夜を徹しての往復であって、普通の人力では至難の技であった。昭和8年頃もこの線路は午後9時蒋渕
局発翌午前3時帰局の時間帯であった。
この尊い就労によって当地区は旧宇和島市内と郵便配達が同日に行われた。
15歳少年集配人松本仲造氏、最初の戸島配達日振島配達は二挺櫓の和船帆も使用したのである
が、冬期は西北風強く、午後の帰途は風波強くなり、宿泊を余儀なくされても、一夜の多度の利用も困
難であった。
大正13年2月3日風波強い日振島行の海上、郵便船転覆、集配人浅田宇三吉氏(当時46歳)は溺
死、同船集配人宮本作一氏(当時35歳)は蘇生した。
上記は蒋渕村史からの抜粋である。
郵便事業は国の大きな仕事であり、その現場で働く人は自分の職務に生命をかけていた。そういう人
たちのおかげで、日本の郵便事業は世界でも、もっとも信頼の置ける事業になったと思う。
郵便事業の民営化が時代の流れだと言われるが、公共事業とは決して利潤を得るためのものではな
いのではなかろうか。
明治30年前後の官業払い下げの例をみる。
(家永三郎監修―総合日本史地図から)
幌内炭坑→北海道炭坑鉄道会社
小坂銅山→久原庄三郎
阿仁銅山→古河市兵衛
大葛金山→阿部 潜
釜石鉄山→田中長兵衛
院内銀山→古河市兵衛
佐渡金山→三菱
富岡製糸場→三井
新町紡績所→三井
三田育種場→木村荘平
深川セメント製造所→浅野信一郎
品川硝子製造所→西村勝三
愛知紡績所→篠田某
生野銀山→三菱
兵庫造船所→川崎正蔵
広島紡績所→広島県→某氏
三池炭坑→三井
高島炭坑→三菱
長崎造船所→三菱
主な官業払い下げの事例だが、
明治17年(1884)大阪商船会社設立。この頃不景気深まる。
と書かれている。
日清戦争が明治27年、日露戦争は明治37年に行われた。多くの命がなくなったが、この戦争で大儲
けをした企業があることを忘れてはいけない。
どこかで、戦争が起きるたびに、多くの人間が犠牲になるが、片方で、大儲けをして喜ぶ連中がいる事
は、いつの時代でも同じだと思う。
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