一条兼定(いちじょうかねさだ)

天文12年(1543)〜天正13年(1586)

土佐一条家の始まり
 戦乱を逃れ、京都から一条教房は、土佐中村に下向したのは文明10年(1479)冬のことである。
同行した従臣は、土居、羽生(はふ)、安並(やすなみ)、為松(たんまつ)、加久見(かくみ)、立石、山
路、平田、荒川、森川、森澤、國見、入野、蕨岡(わらびおか)、秋田、佐多、佐賀、塩塚(しほづか)、
若藤、宿毛、敷地、勝間、阿瀬々(あせぜ)、依岡、實崎(さねさき)、鶏冠木(かへて)、伊與出(いよ
ろ)、入田(にすだ)、太和田(おおわだ)、栗本、岡村、小島、鵜ノ江、橋本、江口、米津、都築、蜷川、
奈良、梅青軒(ばいせいげん)、下野、茅(かや)、竹田、津ノ川、波毛(はげ)、水蓼川(せりかわ)、設
楽(しがらき)、楠村、干屋(ほしや)、下山、本井、入江、蚊井田(かいだ)、與川(よがわ)、宮下、間崎
(まさき)、高瀬、一宮神主の一行であったという。

 
中村にその住居を定め、現在では土佐の小京都と言われる、中村の町を京都に模して作った。やが
て房家が生まれ、土佐一条家の時代が始まった。

一条兼定は土佐一条家の5代目として誕生したが、7歳で父に死別、家臣に守られて成長した。永禄
元年(1558)16歳で大洲領主宇都宮元綱の娘を妻に迎えるが、同7年(1564)離婚して、九州の大
友宗麟の娘と結婚。舅の力を借りて、次第に勢力を増してきた長宗我部元親に対抗する気持ちが合
ったのであろうか。
 このころ、土佐の国東部は長宗我部が支配し、西部を支配する一条家は、たびたび伊予西南部を
襲うようになった。当時今の宇和島地方は西園寺家の支配下にあり、西園寺15将の強者が守ってい
たが、九州からは大友宗麟、土佐からは土佐一条の侵略をたびたび受けていた。

 土佐一条家は、兼定の期待に反し、その勢力は次第に衰えていった。兼定は暴君となり、諫める家
臣土居宗三を手討ちにするという暴挙にいたった。やがては元親の手中に陥り、遂に一条家没落にい
たる。

 土佐を追われた兼定は天正2年(1574)竜串から追われ、豊後大友宗麟を頼り身を寄せた。彼は
このときキリスト教に入信し、ドン・パウロの名で洗礼を受けている。
 その後、兼定は捲土重来、失地回復の念に燃え、天正3年(1575)再び兵を起こし、伊豫の諸侯の
援軍を受け、長宗我部に闘いを挑むが、土佐の渡川(四万十川)の合戦で敗北をし、わずかの家臣と
ともに、伊豫の戸島に身を寄せた。戸島は兼定に援軍を寄せた法華津氏の領内であったことと、豊後
水道にあるこの島は、舅、大友宗麟の領地にちかい為ではなかったのだろうか。

 渡川の合戦で勝利した、長宗我部は、その勢いで伊豫の領内を侵略していった。最終的には、南伊
豫は長宗我部の手に落ちるが、それは必ずしもたやすいものではなかったようである。南伊予の城は
難攻不落のものが多く、かなりの苦戦をしたようである。

「前略−−西伊豫は小敵なれども、剛敵なる故に、元亀2年(1571)より天正12年まで14年にして漸
く平均す。此間に強戦しばしばありて、土佐方の兵戦死も多く、亦高名も多し。−−略 」(南海通記ー
西伊豫群将住所記より)と書かれている
 
 宇和海の小島に逃れ、再起不能に思われた、兼定であるが、元親からすれば、いつまた闘いを起こ
すか判らない存在である。策謀にたけた元親は、かって兼定の側臣であった、入江左近を戸島に送り
込み、ついに兼定を暗殺を実行させた。大けがを負いながらも一命をとりとめたが、天正13年(158
5)7月1日43歳で病死したという。
 一説によれば、重傷を負いながらも、大友宗麟の元に逃れ、そこで死亡した、或いは土佐側の資料
には、即死であったと伝わったようであるが、「フロイス・日本史」「イエズス会日本通信」によれば、一
命を取り留め、大分を通して入ってくる、和訳されたキリスト教関係の書物に心を和ませ、短い余生を
送ったようである。

 島の人たちは、不遇な公家の末裔の死を哀れみキリシタンの彼の為に仏式の墓を作ったという。戸
島本浦・竜集寺にある崩れかけた宝筺印塔が彼の墓であるという。「一条様」「宮様」として今も地元の
人々から崇敬されている。

【参考文献・「神統溯源・一條公御傳記」「白峰寺本・南海通記、巻之十六伊豫考」】
 

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