上甲監督ものがたり 

奇跡の逆転 〜宇和島東を甲子園に導いた名伯楽〜

 昭和62年7月31日午後3時19分、全国高校野球選手権愛媛県大会が行われて
いた松山市営球場では、県立三島高校最後のバッターを打ち取り、宇和島東高校野
球部は甲子園初出場の栄冠を勝ち取った。大きな歓声に包まれた松山球場の一塁
側ダッグアウトの前に立つ上甲正典監督は、夢ではないかと何度も自分を疑った。

明治34年旧制宇和島中学野球部創立以来、悲願の全国大会出場を成し遂げたこ
とがまだ信じられなかった。スタンドからは何度も何度も喜びの声が上がっていたが、
それはまるで潮騒か松風のような一つの自然のささやきのように思え、自分たちが
何をしたのかという実感とは遠いものであった。

だが、時間の経過とともにやがて現実感がわき上がり、昭和57年母校の監督就任
以来の様々な想い出が上甲の頭をかすめていた。負けるたびにヤジが飛び、空き缶
や中にはビール瓶などのものが投げつけられるのは相手チーム側からではなく、宇
和島東応援席からであった屈辱の時代の事も、今は苦笑いできる想い出になってい
た。
愛媛県で一番のチームになった。
その勝利の現実感が湧いてきたのは試合後の表彰式典が終わり、選手達が優勝旗
を掲げグランドを行進する光景を見てからであった。とりわけその後の報道関係者の
取材を受け始めると、いやがおうにもその思いは強まった。ここに到るまでの短いよう
で長かった道のりを彼は思い出していた。

 監督とはどうあるべきか、どう指導すれば選手を育てられるのか、勝てるチームを
作れるのか? 
監督就任以来、自問自答を重ねながら全国を回り、いわゆる高校野球名監督と言わ
れる人たちに指導方法の教えを請うようになったのがつい先日のことのようであった。
常総学院の木内監督、簑島高校の尾藤監督上甲さんよくやったね)それらの人
たちの声が聞こえて来るようであった。池田高校が甲子園で活躍していた頃の故蔦監
が宇和島市で行なった講演会で
「いつかは宇和島東高の時代が来る…」
といった言葉を思い出した。(これからそれが本当に続くのだろうか)、ふとそんな思い
がよぎったが、すぐに現実に戻り、少しなれてきた記者との対応に戻った。そして彼の
心の中では、甲子園出場の切符を初めて手に入れるようになった、この夏の大会初戦
のサヨナラゲームの光景が浮かんできた。すべてはあれから始まっていたのだと思っ
ていた。

 上甲が母校の野球部監督になってから彼の指導の下、選手達は少しずつ力を付け
てはいたが、所詮は井の中の蛙であった。南予地方ではぬきんでた力を持ってはい
たものの、当時全盛を誇っていた松山商業の前には厚い壁がはだかっていた。監督
に就任しての二年目の夏、宇和島東高は早くも決勝戦に辿り付くことが出来た。そこ
で勝利を得れば甲子園の切符が待っている。念願の初優勝は、宇和島市民の誰も
が抱いていた夢であった。内子高校に6対2、北宇和高校、10対0と圧勝し、三島高
校に4対3、準決勝の新居浜工業には8対7と接戦を粘り勝ち抜いてきた。しかし決
勝戦で対戦した強豪松山商業には2対18と予想外の大差をつけられ、屈辱的な敗
北を喫した。

 皮肉な事に翌昭和59年には初戦で松山商業にあたり、これも1対9と大差で敗退
した。

初戦で松山商業に敗退した翌年には決勝戦に進むことは出来たもののまたしても松
山商業に6−0で敗れた。二度までも決勝戦に駒を進めながら、同じ相手に一方的な
試合で敗れたことで、東高野球ファンからは無能な監督のレッテルを張られることと
なったが、上甲は少しずつではあるが、手応えを感じ始めていた。負けはしたもの
の、点差は僅かながらも接近していた。

 宇和島東には松山商業に対しては昔からその力以上にコンプレックスがあった。愛
媛県の高校野球は、松山商業が一番、という思いがあり、宇和島市内の中学校で軟
式野球をする選手達も、実力のある選手は地元ではなく松山商業で野球をすること
が夢であり、またそれが叶うことは誇りであった。松山商業も県下各中学校の優秀な
選手達を探しては、声を掛け、松山商業―甲子園(あわよくばプロ野球)という、球児
にとっては魅力的なブランド図式で優秀な選手を募っていた。

 宇和島市内の中学で優秀な野球選手が仮にそのまま宇和島の高校に進学しても、
甲子園に出場することなどは考えないほうがいい、せいぜい高校野球をクラブ活動と
して楽しめばいい。そんな考え方が支配的であった。宇和島市内の中学生で野球を
志す選手にとって松山商業で野球をすることがあこがれであった。当時の四国を例
にあげれば、香川県は高松商業、徳島県は徳島商業、高知県は高知商業、そして愛
媛県では松山商業と勢力地図には歴然としたものがあった。全国的には京都の平安
高校、愛知の中京商業、大阪の浪商などが全盛を誇った時代であった。

 ところがそれは次第に塗り替えられるようになってきた。地元高校に進学した選手
たちだけで活躍する公立高校が出始めてきた。また一方では全国単位で選手を集め
る新興私学も出現してきた。香川県では尽誠学園、高知県では明徳義塾、島根県で
はテレビで取り上げられ批判を受けた江の川などがある。北海道のある私学ではか
なりの選手が大阪出身と聞いたことがある。話をもどそう。地元の選手だけで甲子園
に出場した伝説的な学校として徳島県の池田高校がある。やまびこ打線、さわやか
イレブン、そう呼ばれた池田高校の連続出場、そして全国制覇は、従来の一県一極
支配構造に大きなくさびを打ち込んだ。徳島池田高校の出現と同時して、高知県中
村高校、愛媛県では南宇和高校の甲子園出場も地方の野球関係者に明るい話題を
提供した。ただ、大きな理由としては、地方高校でも山沖、といった逸材がチームの
牽引役になった事は確かであるが、全員野球という高校野球の原点を再発見する材
料としては十分であった。

 この頃宇和島東野球部後援会長の沖良次(医師)にはある構想があった。地元で
選手を育成し、その選手達で宇和島東を強くしよう、という思いであった。高校卒業後
は草野球チームでも作って楽しめばいい。それもまた部活のあり方の一つの考え方
で良いだろう。だが甲子園を目指すチームにはそれなりの素地と考え方が必要であ
る。は周囲にそれとなく話を持ちかけた。の思いはすぐ皆に伝わった。小学生が
硬球を使うゲームには様々な問題が指摘されている。幼い肉体に無理な力の使い方
をすると、身体に悪影響を及ぼすのである。それらの問題を考慮しながらも、子供達
の野球チームは順調に仕上がっていき、ボーイズリーグ世界大会で宇和島の少年達
は世界優勝をしたのである。そしてその子供たちは中学卒業後殆どが宇和島東高校
に進学した。その選手達が一年生、二年生になり、来年は手応えのあるチームにな
る、上甲はそう確信していたがこの夏はその前哨戦というように位置づけていた。

時間は昭和62年7月31日の松山球場から同年7月22日の宇和島にさかのぼる。
午後3時過ぎ、宇和島市営・丸山球場は重苦しい空気に包まれていた。

 上甲正典が母校の野球部監督に就任して5年目の夏の大会の初戦であった。相手
は後NTTからヤクルトスワローズに入団して活躍する二年生好投手左腕の山部を擁
する八幡浜工業であった。当初19日に行われる予定だった試合は、連日の雨で順
延となっていた。この年には県大会が始まる前の7月17日にはあの国民的人気スタ
石原裕次郎が病気のために52歳で亡くなっていた。気象庁は前日一度は発表し
た梅雨明け宣言を撤回し、四国、九州は戻り梅雨の状態にあると発表した。19日に
は、既に全国で最初に沖縄県では、裁監督率いる沖縄水産が沖縄尚学を7−0で圧
勝し4年連続の甲子園出場を決めている。

 丸山球場では前日までの雨は上がり、夏の日差しが頭上から照りつけていた。風
はなく蒸し暑い天気であった。試合は初回裏宇和島東が2点を取り先行していたが、
三回表に同点とされ、その裏すぐに2点を返し逆転したが、八幡浜工業は宇和島東
の投手二年生小川から四回表に2点を取り再び同点にすると宇和島東はその後再
三の好機を逃し、小川から交代した松本から大塚のソロホームランをはじめ小刻み
に点を取り逆転すると、いつの間にか試合は八幡浜工業のペースで進んでいた。た
上甲にとって幸運だと感じたのは七回表一死満塁の危機を零点で凌いだことであ
った。八回裏一点を返し僅かその差を一点としたものの、すでに試合は九回裏二
死、ランナーはなく、絶対絶命の状況であった。上甲はあきらめかけていた。一塁側
の宇和島東応援団も完全に負けた、と思っていた。「あー、負けたぜ」 ため息と嘆き
の声が球場全体を包み込んでいた。

 そんな空気を知ってか知らずか、八幡浜工業のエース山部にとって最後のバッター
になるはずの山中久はバッターボックスに入る前、上甲のそばに駆け寄って

「狙ってきます」

と告げた。狙うとは勿論ホームランである。上甲は一瞬耳を疑った。この土壇場で臆
することもなく、笑顔でそう言う山中はチームの中でも身長163pの小柄な選手であ
る。しかし小柄ながら、筋力トレーニングで鍛えた肉体は爆発しそうに燃えたぎってい
た。山中の細い眼は落ち着いて澄んでいた。何処にも動揺の色はなかった。

「よし」

 上甲は軽く肯いた。肯くとともに今まで山中がこれほど度胸が据わっている選手だ
ということに気が付かなかった自分を恥じた。山中はボーイズリーグで世界優勝した
時のメンバーの一人である。この時の東高チームには、山中をはじめとして明神、柴
などのメンバーがいた。相手の山部は八回までに既に185球を投げ、かなり球威
は落ちている。しかし九回の裏の宇和島東の攻撃は一番からの好打順で始まったも
のの一番大石、二番大塚は簡単に打ち取られていた。(山中には自信がある)上甲
はそう思った。山部の立ち上がりを攻め、一方的な勝利かと思われた試合も、気が
付けばバントミスなどで17残塁の山を築いていた。そればかりではない、逆転されて
今や瀬戸際に立たされている。あと一つアウトになればこの夏も終わる。しかし、もし
かして……。上甲の心の隅にはかすかな期待が芽生え始めていた。

 マウンドの山部は疲れを感じていた。一人で投げ続け、指先の感覚が鈍くなってい
た。立ち上がり2点を先取されたが、味方がすぐに追いつき、山部自身も四回には二
塁打で点を取っている。あと一つアウトをとれば試合は終わる。練習試合でもまだ宇
和島東には負けた事がない。そういう思いと裏腹に七回表の味方の攻撃では、満塁
で一点もとれなかった事が妙に気にかかっていた。九回裏ツーアウト。スコアはワン
ストライク、ツーボールである。歩かせると後攻めなので逆転される危険がある。二人
を凡打で打ち取っているだけに、山中を最後のバッターにしたかった。山中は強打者
であることは当然判っていた。すでにこの試合でもシングル、三塁打の二本のヒットを
許している。だが次の打者四番明神からは三振を一つ取っているが二塁打を許して
いる。歩かせてランナーを出すよりは山中で勝負だ。疲れた肩を意識しながらも山部
は足を振りかぶり、キャッチャーの構えたミットめがけて投げ込んだ。


 右打席に入った山中は好球を待っていた。監督にホームランを狙うと言った限りに
は打たなければいけない。ボール球に手をだす事は避けなければいけない。ボール
が二球来た。スリーボールになるか、良い球が来るか。コントロールが良ければフォ
アボールを避けるためにも必ず真ん中に入ってくる。それをまっていた。(野球はツー
アウトから、ワン・ツーの次が打ち時だ)なんとなく野球を始めた頃の教わった言葉が
浮かんできた。

 思った通り絶好球が来た。球威はさほどない。山中は力を込めて球をはじき返し
た。当然ながらホームランを狙うことしか考えていなかった。打った瞬間に手応えを感
じた。一塁に向かって走る山中は、確信は持ちながらも祈るような気持ちで打球の行
方をチラリと眼で追った。

 カキーン、山中の放った打球は鋭い金属バット特有の音を残すと、青空に白い弧を
描きながらレフトフェンスを越え、無人の森に消えていった。打った瞬間に応援席は
沸き返った。白球が深緑の森に吸い込まれると球場はさらに怒濤のような悲鳴にに
た歓声に包まれた。

 丸山球場は昭和49年8月6日宇和島市では初めて公式試合の出来る球場として
完成したものであったが、ナイター設備などはなく山を切り崩して造られた谷底の窪
地のような場所にあった。申し訳程度の内野席はあるが、外野席は左右に僅かな芝
生の場所があるだけで、レフト側には鬱蒼と繁った森があった。そこには「まむし」が
出るという話があり、ホームランや大きなファールボールががそこに入るたびに、飛
び込んだボールを探す選手はいつもその言葉を思い出していた。無理をしてまでボ
ールを探そう、という気持ちにさせないような場所であった。ライト側はすぐ崖になりス
コアボードのあるセンターも背後には崖が迫っていた。最新の設備の揃った球場なら
ともかく、白墨で選手の名前や点をボードに書き込むための役を言いつけられた選
手には、真夏のスコアボードの中は熱地獄にようなものであった。タオルを何枚用意
してもすぐに汗でずぶぬれになる程の暑さであった。

 同点になるホームランを打ち込んだ山中はしてやったりと、満面の笑みを浮かべて
ホームに入った。応援団はまるで勝ったかのような騒ぎようであった。先ほどまでの
重苦しい空気が勝利の風に変わっていた。実際には風など吹き込まないような窪地
で、特に梅雨の合間の蒸し暑い球場であったが、観衆は暑さを忘れて狂喜した。

 これは奇跡なのだろうか。誰もがそう思っていた。流れは完全に宇和島東に傾い
た。がっくりと気落ちした八幡浜工業のエース山部は、続く四番明神にセンター前に
運ばれるヒットを打たれた。僅か一球で立場は全く逆転していた。逃げ切るつもりが
同点ホームランを浴び、主軸にはサヨナラになるかもしれないランナーになることをを
許してしまった。負けたかも知れない。山部にはもう勝利投手になるという望みはなく
なっていた。一塁側では押せ押せの大合唱である。握力の失せた指には押さえるだ
けの力はないことは本人がよくわかっていた。それでも山部は気持ちを落ち着かせ
出来るだけ丁寧にカーブを投げた。

 宇和島東高・五番松本山中の同点本塁打で、試合の流れが大きく変わって来た
ことを感じていた。勝利の女神は自分たちに味方している。そう思った。松本は五回
にそれまで投手をしていた小川に変わりマウンドに立ち、八幡浜工業の井上に本塁
打を打たれている。それが点差の原因になった事を悔しく思っていた。その借りを返
すには絶好のチャンスが来た。山部の左腕から離れた球は思った通りカーブだっ
た。球威は落ちている。力まずに走者を帰すためのヒットになれば良いと思いながら
基本に忠実にセンター返しを狙った。松本の放った打球は思いがけずぐんぐん伸び
ていった。懸命にバックするセンターの頭上を越え、打球はすでに日陰になってきた
外野を転がっていた。

 明神は懸命に走った。松本がバットを振った瞬間から思い切って一塁ベースを飛び
出していた。彼は足は早いほうではない。だが走りながら見た打球はセンターを越え
ていた。ツーアウトなのでなんとしてもホームインはしたかった。足の自信はなかった
が、今の打球なら自分でもホームを踏むことが出来る。息が切れ、足がもつれそうに
なりながら三塁を回った。サヨナラのホームベースを踏んだ瞬間には、息が苦しいこ
とも、足がもつれそうになった事も忘れていた。練習試合では、何度も同じサヨナラゲ
ームの経験をしていたが、やはり公式戦では勝利の味は違うものだと思った。ちらっ
とマウンドを見ると、山部がうずくまっているのが見えた。審判の手が大きく広げら
れ、ホームインが認められた。大きな歓声が丸山球場に広がった。

場面は再び松山球場に戻る。

 上甲は、ふと我に返った。総てはあの日から始まったのだ。そう思い直した。正直
言ってあのときは敗戦を覚悟していた。特に何度も何度もランナーを塁に進めながら
も、思うように試合を運べなかった。残塁は17を記録している。監督としての失敗を
選手達が取り返してくれた。後のインタビューにそう答えたことは当然のことであっ
た。決してきれい事で答えたのではなかった。監督としての未熟さを覚えるとともに、
奇跡の逆転を呼び込んだ山中の何事にも動じない精神力の大切さを改めて感じた。
監督たるものが勝負で大切なものを選手から教わった、そう思い軽く苦笑いを禁じ得
なかった。 

 この夏、八幡浜工業に勝ってからは準々決勝で西条と延長戦で8対7で接戦をもの
にした試合以外は極めて快勝の試合であった。二回戦川之江には7対3、三回戦松
山城南には9対5、準決勝の新田戦では7対4、決勝戦では5対1で三島を下した。
宿敵松山商業は準々決勝で宇和島東が決勝戦で勝った三島に8対5で敗れていた。
西条との延長戦では、不思議と上甲は落ち着いて試合に臨めた。同点での延長戦に
なったものの負ける気はしなかった。幸運の女神が彼に味方しているような気がし
た。たとえ何度かの作戦が失敗したとしても、それはそれなりの理由があっての事だ
と思った。

 一方初戦で敗れた八幡浜工業のエース山部はこの悔しさを忘れていなかった。翌
昭和63年センバツで優勝し、春夏連覇を狙う宇和島東に対し、その年の夏の県大
会の準決勝で再度対決し、粘る宇和島東を4対6で破っている。特に最後の回で打
山中を大きなレフトフライに打ち取ることが出来た。ただ、レフトは予めフェンス間
近で深い守備位置にいたことが幸いしていた。定位置ならば完全に長打を許す打球
であった。

 宇和島東高のナインにとって、初めての甲子園はすべてが夢の中のようであった。
大きなスタンド、黒々としたグランド、大観衆。田舎の子供達には異国に来たような気
分であった。いつもテレビニュースでしか見たことの無かった、甲子園でプレー出来る
という事がそれまでもの怖じしなかった選手達にある種の圧迫感を与えていた。それ
は上甲監督も同じ気持ちであった。あの大舞台に立っていると考えただけでも緊張を
隠せなかった。

 選手にとっても監督にとっても、そして宇和島から出発した大応援団にも生まれて
初めての体験であった。すべては夢の中のようであった。終わってみれば宇和島東
の甲子園デビューは一関商工の前に0対3で完敗していた。チーム全体足が地につ
いて居なかったようだ。

 しかしこの貴重な経験が翌年春のセンバツ初出場初優勝につながるとは誰も思っ
ていなかった。上甲は夏の甲子園を振り返って、監督自身がよく覚えていないと言う
ほど五里霧中であった。多くの反省点を見付けたようであった。もともと夏の初出場
は予期せぬ出来事であった。初戦の八幡浜工業戦で一度は死んだチームがよみが
えった。その結果県大会優勝を勝ち得たのである。

 しかしこの経験はその後、監督在任中、春夏合わせ11回の甲子園出場、春夏四
季連続出場(平成5年春夏、平成6年春夏・中日・平井、ロッテ・橋本在籍中)、愛媛
県でも戦後初の成績で夏将軍と呼ばれる松山商業でさえなしえなかった、全国大会
3年連続出場(平成9,10、11年)という偉業を成し遂げた上甲正典監督の大きな
基礎となった。確かに平井、橋本、宮出というプロ野球選手になる素地を有した時期
もあるが、どちらかといえば高校野球として全員野球で勝ち取るケースが多かった。
それが愛媛の地で様々な高校野球の歴史を塗り替える要因でもあったのだろう。(因
みにヤクルトスワローズの岩村が宇和島東高野球部にいた時代には一度も甲子園
の土を踏んでいない。しかし岩村は太平洋選手権には日本代表メンバーに加わり、
フィリピンの某球場で場外ホームランを放ち、岩村の名前を刻んだ記念のプレートが
あのベーブ・ルースの名前の近くに付けられた)

 一時期野球低迷時代の続いた愛媛県であったが、最近では宇和島東出身のプロ
野球諸選手
を初めとして日本ハムの沖原、巨人の野口、ヤクルトの山部、などの選
手の活躍が見られるようになった。かつては強豪、伝統校だけにしか許されなかった、
高校球児の夢の舞台「甲子園」が身近なものになったのは時代の流れかも知れない
が、宇和島東高にとって黄金期を形成したのは、紛れもなく上甲監督の功績によるも
のであろう。

(岩村はその後アメリカ大リーグに入団した)
 
 将来、再び宇和島東高野球部に黄金期が再来するかどうか、神のみが知ることで
あろう。上甲は野球以外には何の取り柄もない男だったかも知れない。彼から野球を
取ればただのその辺りのありふれた男であろう。彼は学生時代の下積みの野球生
活を経験したことで、名伯楽の名をものにする事のできた男だった。彼の名は東高野
球部の、いや愛媛県高校野球の歴史を語るとき、名監督として永遠に名を残すであ
ろう。

平成26年9月2日 上甲正典は67歳で急逝した。ご冥福を祈る。合掌

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