宇和島東高校野球部と上甲監督

お断り・宇和島東高校出身の管理人に
とっては華々しい事なのではしゃぎ過ぎかも、ご容赦をm(_ _)m


  上甲が母校の野球部監督になってから彼の指導の下、選手達は少しずつ力を付けてはいたが、まだまだその力は微力なものだった。南予地方ではぬきんでた力を持ってはいたものの、当時全盛を誇っていた松山商業の前には厚い壁がはだかっていた。監督に就任しての二年目の昭和59年の夏、宇和島東高は早くも決勝戦に辿り付くことが出来た。

 そこで勝利を得れば甲子園の切符が待っている。念願の初優勝は、宇和島市民の誰もが抱いていた夢であった。内子高校に6対2、北宇和高校に10対0と圧勝し、三島高校に4対3、準決勝の新居浜工業には8対7と接戦を粘り勝ち抜いてきた。しかし決勝戦で対戦した強豪松山商業には2対18と予想外の大差をつけられ、屈辱的な敗北を喫した。

 皮肉な事に翌、昭和60年には初戦で松山商業にあたり、これも1対9と大差で敗退した。
初戦で松山商業に敗退した翌年、昭和61年には決勝戦に進むことは出来たもののまたしても松山商業6−0で敗れた。二度までも決勝戦に駒を進めながら、同じ相手に一方的な試合で敗れたことで、東高野球ファンからは無能な監督のレッテルを張られることもあったが、上甲は少しずつではあるが、チームの手応えを感じ始めていた。負けはしたものの、点差は僅かながらも接近していた。

  この経験はその後、監督在任中、春夏合わせ11回の甲子園出場、春夏四季連続出場(平成5年春夏、平成6年春夏・中日・平井、ロッテ橋本在籍中)、愛媛県でも戦後初の成績で夏将軍と呼ばれる松山商業でさえなしえなかった、全国大会3年連続出場(平成9,10、11年)という偉業を成し遂げた上甲正典監督の大きな基礎となった。確かに平井、橋本、宮出というプロ野球選手になる素地を有した時期もあるが、どちらかといえば高校野球として全員野球で勝ち取るケースが多かった。それが愛媛の地で様々な高校野球の歴史を塗り替える歴史の1ページを刻むことが出来た要因でもあったのだろう。(因みにヤクルトの岩村がいた時代には一度も甲子園の土を踏んでいない)
 
 将来、再び宇和島東高野球部に黄金期が再来するかどうか、神のみが知ることであろう。上甲監督は野球以外には何の取り柄もない男だったかも知れない。彼から野球を取ればただのその辺りのありふれた男であろう。彼は学生時代の下積みの野球生活を経験したことで、名伯楽の名をものにする事のできた男だった。その影には、彼の人並み以上の努力の結晶があった事を忘れてはいけない。
高校野球の監督として、どうあるべきか、彼は常に悩み続けていた。全国の有名な監督の下に教えを請う為に、彼は時間を割いては訪ね回り、選手を育成するヒントを捜していた。
 その結果が、無名の県立高校を甲子園常連校にまで育て上げたのである。

 彼の名は宇和島東高校野球部の、いや愛媛県高校野球の歴史を語るとき、名監督として永遠に名を残すであろう。

遅ればせながらも、

上甲監督在任中の宇和島東高校野球部の主な戦績

 左が宇和島東高校の得点、○は勝ち、◎は優勝、●は敗け。春の大会は除外
昭和59年(1984)
夏 県大会 ○6−2内子 ○10−北宇和  ○4−3三島 ○8−7新居浜工
決勝戦 ●2−18松山商 決勝戦まで進んだものの、宿敵松山商業の前に大敗を喫した

秋 県大会 ○1−0内子 ○8−3松山北 ●7−14八幡浜(八幡浜優勝)

昭和60年(1985)
夏 ●1−9松山商業 (この年は川之江優勝)初戦でいきなり松山商業に大敗
秋 地区予選で敗退

昭和61年(1986)
夏 ○2−1今治北 ○8−7北宇和 ○12−2東温 ○5−4帝京第五 ○11−4 宇和
  決勝戦 ●0−6松山商 またもや松山商業に甲子園の道を阻まれる
秋 地区予選敗退
コメント(このころ宇和島東では悪しき伝統として夏休みが終わる頃に集団脱走事件が多発していた。そのために大事な時期を無駄にすることが多かった。野球部員に自覚がなかったのであろう。集団脱走事件の起きない年は、翌年は甲子園に出場していたと思われる。その後も秋の脱走事件は恒例行事となっていた)
  
昭和62年(1987)
夏 ○7−6八幡浜工 (この試合がその後の宇和島東を甲子園常連校にする決定的な試合となったのだと思う。宇和島市営・丸山球場では誰もが負けたとあきらめていた。現ヤクルトのエース山部投手を擁する八幡浜工業高校から9回裏2アウトランナーなしで、山中が同点ホームランを打ち、逆転サヨナラ勝ち)
 ○7−3川之江 ○9−5松山城南 ○8−7西条 ○7−4新田 ◎5−1三島 宇和島東高校初優勝
 創部87年目にして悲願の甲子園出場を決めた。(天敵・松山商は準々で三島に8−5で負け)
甲子園夏初出場 選手、監督、応援団みんなまるで夢の中のようであった。気が付けば一関商工に完封負けをしていた。しかしこの経験が翌年春の選抜での全国優勝につながるのである。
 ●0−3一関商工
秋 ○5−1八幡浜 ○5−1今治明徳 ○6−3三島 ◎7−3松山商 県優勝
秋四国大会 ○11−0富岡西 ●3−7高知商
 鳴門球場で高知商業に敗れ、悔し涙を流した選手達であったが、この試合で好リリーフをした左腕木村が評価されて翌年選抜に出場できたと聞いている。この時打たれた小川投手はその後懸命な走り込みをして足腰を鍛え、甲子園での初優勝を得ることになる。また松山商業に勝ったことでそれまでの松商コンプレックスを払拭することになった。
 なお、この時地方では放送されなかったが、東京では宇和島東高を取り上げた30分の民放番組があった。

昭和63年(1989)
 春甲子園選抜 初出場 ○9−0野洲 ○9−3近大付属 ○5−4宇部商 ○5−4桐蔭
決勝 ◎6−0東邦
 初出場・初優勝
野洲では山中の先頭打者ホームラン、宇部とのさよなら逆転ゲーム、桐蔭との息のつまる延長戦。初優勝に宇和島の町は興奮のるつぼとなった。昭和最後の選抜大会であった。

優勝の瞬間、小川投手と明神捕手

 夏 ○12−7松山北 ○5−0小松 ○4−2伊予 ●4−6八幡浜工
  雪辱を誓う好投手山部の前に甲子園春夏連続出場はは出来なかった。山部は宇和島東高校には勝ったものの指の故障のため(マメがつぶれた??)決勝戦で松山商に10対0で敗れた。
秋 ○13−6新居浜東 ○8−0新居浜商 ○9−8川之江 ●5−7西条
 
平成1年
夏 ○10−3帝京第五 ○9−1新居浜東 ○8−1中山 ○3−1松山商 
 決勝 ◎10−1新田 二度目の夏の甲子園出場を決める
甲子園 ○3−0日大山形 ●1−3尽誠学園 (夏の甲子園で初勝利をするも二回戦で敗退)
秋 ○3−2今治西 ●1−5新田 (翌年新田は甲子園でミラクル新田として準優勝)

平成2年
夏 ○9−2北条 ○10−3宇和島南 ○11−8帝京第五 8−10松山商(松山商優勝)
秋 ○12−0松山東 ●0−1三島 (キャッチャーの竹内はホームでタッチしたものの審判には認められずさよなら負けになった。地方大会ではよくある出来事)

平成3年
夏 ○17−0今治南 ●4−5川之江 (この年、川之江優勝)
秋 地区予選敗退

平成4年(1992)
夏 ○8−1今治東 ●10−11松山商(パリーグ新人王になった平井投手の登場。二年生になってのスタートであった。一年生から無理をして酷使して本人の身体を壊してはいけないというのは監督の考えであった。高校野球だけでその人間の人生を変更してはいけない、野球の素質のある人間を見極める事の出来る上甲監督の考えである。その後、橋本、宮出、岩村などのプロ野球選手を宇和島東高から送り出す事になる。試合はコールド勝ちかと思われたが、まさかの逆転負けをする。さすが松山商業)
秋 ○7−0松山北 ○9−0大洲 ○3−2西条 ◎2−1今治西 県大会優勝
秋四国大会 ○7−4岡豊 ○12−4高松商 ●3−5土佐(四国大会2位)

平成5年(1993)
春 選抜甲子園二回目
 ●3−9常総学院 (選抜連勝はならなかった)
夏 ○11−0大三島 ○12−0八幡浜 ○5−0今治南 ○1−0松山商
  決勝戦 ◎5−3今治西 (夏三回目の甲子園出場を決める)
夏 甲子園 
○5−1海星 ●2−7桐生一 (甲子園で連投をしなくてすんだ平井投手はこの年のドラフト会議でオリックスから一位指名を受ける。本人は初めはダイエーを希望していたらしいが、結局オリックス入団。その後セーブ記録を更新したり、リーグ優勝に貢献する。)
秋 ○7−0帝京第五 ○5−1新居浜西 ○9−2今治西 ◎6−2松山聖陵 県優勝
秋四国大会 ○8−1高松商 ○3−0高知 ○8−1尽誠学園 秋の四国大会優勝

平成6年(1994)
春 選抜三回目出場 ○11−2東北 ○4−2広島商 順々決勝●5−6智弁和歌山
このチームは全国優勝できるだけの要素があっただけに、敗退は悔しかった。ちなみに智弁和歌山がこの年優勝している。

○15−0新居浜南 ○14−1新居浜商 ○9−2野村 ○6−1松山商 ◎9−6西条
春夏4回連続の甲子園出場を果たす
夏 甲子園4回目 ●2−6北海 なかなか甲子園で勝つことが難しくなってきた。
秋 ○13−3松山西 ○10−0今治北 ●1−6松山商

平成7年(1995)
夏 ○8−0吉田 ○7−0新居浜商 ○10−6松山聖陵 ●3−4丹原
秋 ○2−1松山北 ○3−2帝京第五 ○5−2西条 ●1−5松山商 
秋四国大会 ○7−5生光学園 1−7明徳義塾

平成8年(1996)
夏 ○18−2中山 ○12−3松山西 ○5−2松山北 ○10−2西条農 ●6−13松山商
秋 ○11−1南宇和 ○9−2野村 ○8−4新田 ●2−7今治西
秋 四国大会 ○2−1尽誠学園 ●3−4明徳義塾

平成9年(1997)
(県大会では今治西に敗れ二位校だったが四国大会での健闘が評価され選抜出場)
春 甲子園センバツ4回目 2−3日南学園
夏 ○7−0新田 ○15−0愛大付農 ○7−2松山中央 ○5−2丹原 ◎12−4今治西
優勝 夏の甲子園5回目出場
夏 甲子園 ●1−4函館斗
秋 ○9−2新田  ○5−2新居浜西  ○9−7丹原  ●3−5今治西
秋 四国大会 ○10−2高知商 ●3−12徳島商

平成10年(1998)
 ○9−0八幡浜工 ○9−0弓削 ○7−0津島 ○4−4丹原 ◎5−4今治西
優勝 二年連続6回目の夏の甲子園出場

 甲子園 ○5−4日大佐野 ●2−4常総学院(またしても常総学院に勝利は叶わず)
秋 ●1−2新居浜東
(これも集団脱走事件の影響だったのか?)

平成11年(1999)
夏 ○12−0吉田 ○9−0今治南 ○10−1南宇和 ○9−8松山聖陵 ○4−3新田
◎10−5西条
  【三年連続甲子園出場は愛媛県では戦後初の快挙である。あの夏将軍と異名を持った松山商業でさえ三年連続出場はしていなかった。】
夏 甲子園7回目 ●5−10新潟明訓
秋 ●2−10大洲

平成12年(2000)
夏 ○8−0今治南 ○9−1今治東 ○5−2八幡浜 ●2−8丹原(丹原優勝校)
秋 ○13−3伊予 ○10−0新居浜東 ○10−9新田 ◎6−4丹原 
秋四国大会 ●4−8小松島

平成13年(2001)
○12−0吉田 ○8−3松山東 ○3−2松山北 ○3−1新田 ●6−7松山商

 平成13年初夏、彼は最愛の妻を病で失った。長い闘病生活で入院している妻の病室を彼は練習後毎日のように訪れていた。病院の廻りでリハビリをかねて散歩する、彼と妻の姿は夜の闇に隠れて世間には見えなかったようだが、知っている人間も少なくなかった。しかし野球に於ける彼の努力と同じように、総じて世間からは見えにくいものであった。
 上甲が監督として活動出来たのも、常に陰で支えてくれた伴侶がいたからであった。

 その年の夏、彼は意を決して慣れ親しんだ母校宇和島東高校野球部監督の座を去った。

 それまでにも県内の私立校から野球部監督としての招聘はあったものの、宇和島東高校以外では野球をやらないと公言していた彼であったが、妻の死は何よりもつらく彼にのしかかっていた。妻の死という悲しみを乗り越えるために、彼は悩んだあげく済美高校野球部監督としての道を選択したのだろう。
 彼から野球を取れば何も残らない程の野球馬鹿であったかも知れない。彼の人生で野球を除く事は考えられなかった。共学となったばかりの松山、済美高校の野球部監督という新天地で気持ちも新たに、白紙から再出発する彼にエールを送りたい。私学ばかりでつまらなくなったという高校野球ファンの気持ちは理解出来るが。 名伯楽としての彼の今後に期待すると共に、彼の築いた栄光を、次期宇和島東校野球部監督に期待したい。

     
左から、宇和島大賞を受賞した平井投手
中・学生服姿の岩村選手、右・宮出選手

  
左から、宮出・平井・橋本選手 右は、岩村選手が加わった。

【追補】
平成15年秋の大会で、上甲正典監督率いる済美高校は公式戦初勝利をあげた。
しかも、創部2年目にして秋の県大会で見事初優勝を勝ち取ったのである。

(愛媛新聞10月20日の記事より)
 今大会、済美の打力は他チームを圧倒していた。準決勝まで3試合のチーム打率は4割5分6厘。決勝でも全員がコンパクトに振り切る打撃を心掛け、鋭い当たりを連発。毎回の12安打を放ち、毎回得点圏に走者を進めた。
 五回の攻撃では、ソツのなさが光った。四死球と相手失策で労せずして得た好機を逃さず、わずか1安打で4点を奪った。「直球が来ると思っていた」と狙い球を絞って適時打を放った鵜久森、一死一、三塁から確実に犠打を放った田坂の打撃も見事だった。
 「大会を通して、みんな自分のバッティングができていた」と鵜久森。攻撃力を最大の武器にして、済美が初の四国大会に臨む。

従来三校の出場枠があった四国地区であるが、どうやら来年からは二校に減るようである。
愛媛県からはしばらく選抜に出場していない。これからの奮起を期待したい。

【平成15年11月9日更新】
平成15年11月9日、選抜の重要な参考になる秋の四国大会で、上甲正典監督率いる済美高校は10x対3で鳴門工業を下し、創部2年目にして初出場・初優勝の栄冠に輝いた。
まさに上甲正典の監督としての手腕が導いた結果であろう。

平成26年9月2日午前9時15分、惜しまれながら彼は急逝し67歳の生涯を終えた。彼の存在は私たち東高17期生の輝く星である。合掌

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