宇和島藩庁伊達家史料 記録書抜 伊達家御歴代事記

(「南豫誌」及び「近代史文庫宇和島研究会編」より抜粋)

一、元和〜寛永抜粋

無印は記録書き抜きより抜粋

★印は御歴代事記より抜粋

慶長廿年卯正月始
(時系列的にはこの時点において慶長廿年と言うことは間違いではないが、明治に至までの期間は元号が変わると全て旧元号の最後の年は新元号の元年に切り替えられていた。おそらく情報網が未成熟な時代で混乱を避けるために統一したものと推察される)
 秀宗上京、同月日並未知、京都ヲ立テ、二月始、摂州伊丹江越駕、尼崎ヨリ乗船、同三月十六日、伊予国喜多郡大洲領之長濱ニ着船。夫ヨリ陸通行、同月領内松葉町仮屋ニ一宿、同十八日宇和嶋丸串城ニ入ル。時ニ二十五歳。

 (朱)外記ニハ、二月十八日御着城と相見候得共、桜田記録ニハ、三月十八日ニ相極候様相見ル也。

(宇和島藩伊達家の藩祖が宇和島に入部した時の記録ですらはっきりとした事が不明になっている。従ってこれから書く記録も不確かである事を断っておく)

★元和元年

 御入部後、秀宗様、御祈願被為在、毛山村之内御城より東之方一山に、愛宕権現御造営ニ相成、御参詣道相作、数年相懸。

★元和四年戊午

 當年より彌以て、政宗公江三万石ツヽ年々差上相成、三万石分御代官・和田源太夫江被仰付。

元和五年己未

今年三万石御分御代官、和田源太夫、矢部理左衛門被仰付、宇和島市はつれ北口江仙臺御役所相立。

元和五年、山家清兵衛死ス峯金四郎、山家一件ニ付切腹、小間木根主膳、同事件に付出奔す。渡瀬太郎兵衛も出奔ス。

※ 注 正しくは和霊騒動は元和六年に起こった、この記述もあやしい。

同七年辛酉五月十五日

 三萬石御代官、塩松清左衛門、和田源太夫。

元和八年壬戌 九島願成寺、元結木江御引ニ相成、御建立。

元和九年葵亥 御入部之年より御祈願有之、愛宕社御建立之。鳥居道共今年ニ至全成就。


寛永元年甲 御手傳御普請成就、三万石分御代官、根本孫左衛門・中川左馬之介。

同二年乙丑 三万石御代官、同断

【付箋】寛永九壬申 櫻田玄蕃死去。

同年十二月 宇和島一宮社御造營、遷宮。

同十年葵酉 将軍家光公より諸国巡検使六組被仰出。

寛永十四年 十月左之通申渡之事

 一、御城下壱里近所、大浦、椛崎、柿原村、下村、毛山、野川、来村、諸牢人宿仕間鋪

候。タトへ商人ニ候共、無拠招者、其旨郡奉行江不窺、私ニ宿仕間鋪候。

同十三年 宇和島丸串城御破損所御修覆之御伺被差出候処、御聞届、御老中御連名之御奉書到達、仍而御修覆御取掛ニ相成。

同年十一月ヨリ 肥前国嶋原一揆ニ付、梶田権兵衛武功之有之事。

同年十月 肥前島原一揆ニ付、上使御用船五十艘、水主、御船頭共千二百十四人被立御用立。尤飯米ハ公儀より御渡相成、松平伊豆守様。戸田左門殿御越ニ付、為御見舞使者、梶田権兵衛、御足軽一組召連被仰遣。後又、今泉輿惣左衛門、御足軽一組召連て被遣、同十二月、御見舞御役を以て御肴被進。

【付箋】寛永十四年、島原一揆ニ付御城御用心として、山崎式部、御城段右衛門丸詰被仰付。

同十五年戌寅正月 又為御見舞、神尾勘解由被遣。

同年二月 一揆落城

同年五月 元和三年より、政宗公江差上之三萬石、過る十三年政宗公御逝去ニ而成候ニ付、御差上相止、昨十四年より十萬石全御蔵入ト相成。尤給知之面々ハ、知行所地方ニテ被下候ニ付、十萬石之御物皆御蔵入ニハ不相成候。

宇和島丸串城鬼門ニ當る処江、龍光院御建立ニ相成。本尊文殊勧請被仰付候。

同十七年庚辰正月元日 伊達遠江守領國、先頃唐船流入、其節風波ニ逢、難船致、唐人九十人之内十一人ハ致死去、残七十九人、陸江上候由令注進候。仍之長崎江飛脚進有之旨、遠江守於申越、任先例、被唐人共、其國々江可被致帰帆旨被仰出候。

同年、宇和嶋新町恵比須、従西之宮勧請。椛崎番所之上ニ堂有之。其後夷ヶ鼻恵ヱ移ス。

但、此ヶ条、年月事実相違之義モ有之。吟味之上、所々江鎮座之年月之月ニ相入ル。

同十八年辛巳 摂津國西之宮之蛭子を、樺崎番所之上之山江御勧請有之、後向之山鼻海邊之処へ御移ニ相成。

同二十年葵未

同年迄ニ、元和八年より追々ニ被召出候御家来、左之通り。

本國大和高取、寛永十九年被召出、三百石被下置候。           松田六郎兵衛

古田織部殿浪人、寛永六年被召出、二百石被下置。            加幡善兵衛

生國武蔵、江戸十二歳ニテ被召出、二百石被下置候。           大関勇之丞

富田信濃守浪人、寛永三年被召出、                     梶田又兵衛

一柳監物殿浪人、寛永十三年被召出、二百石被下置。          加藤市右衛門

松平下総守浪人、寛永十二年被召出、                勅使河原与一左衛門

本國備後、寛永十二年於京都被召出、                   尾田又右衛門

毛利摂津守殿浪人、寛永九年被召出                    梶田市郎左衛門

寛永九年被召出 三百石被召出 三百石被下置             味木十郎左衛門

京極若狭守殿浪人、二百石被召出                     中井九郎左衛門

寛永十七年、奥小性被召出                         今橋猪兵衛

本國當地、寛永十三年被召出                        中川忠兵衛               

本國甲州、寛永三年被召出、二百五十石被下置             小野寺兵太夫

本國甲州、寛永十九年御小性被召出                    岡谷兵太夫

脇坂中務殿浪人、寛永十五年被召出                    曽原清左衛門

鳥居右京殿浪人、寛永十五年被召出                    國安太郎左衛門

松平宮門殿浪人、寛永五年十一歳ニテ被召出 二百石被下置     高月半左衛門

米津清右衛門殿浪人、寛永五年被召出                   金原彌右衛門

最上出羽守殿浪人、寛永五年被召出                     里見才兵衛

土井大炊頭殿浪人、寛永十三年、宍戸弥左衛門御取次ヲ以被召出    里見輿五右衛門

寛永十一年、宍戸弥左衛門御取次ヲ以被召出、二百石被下置      荒木八郎左衛門

寛永三年、御小性被召出                            安藤七兵衛

寛永十年、江戸ニテ被召出。三百石被下                   上田九左衛門

寛永十年被召出、強力米百五十俵被下                    原 権兵

寛永二十年、宗時様御所望ニテ、仙台より御貰相成、御鷹方被仰付   佐藤 孫助

堀丹後守殿浪人、寛永十五年、大小性ニ被召出、百五十石被下置    山田七右衛門

寛永十五年、仙臺へ御所望御貰被召出                    日野彌右衛門

寛永十一年、御近習被召出                           久徳七兵衛

鳥居右京殿浪人、寛永十五年、御小性被召出御仕着            戸田重次郎

寛永十三年被召出、百五十石被下                       岡谷又右衛門

寛永二年被召出、二百石被下置                        丸山 道意

寛永十六年、御近習被召出                           服部安右衛門

御前様局ニ養子ニ被召出                            荻原仁左衛門

元京都、寛永九年、於伏見被召出 三百石被下置              山田 見益

於京都被召出                                   丸山 清菴

本國長州、寛永九年、江戸ニて被召出                     吉良 玄良

寛永十四年被召出、二百石被下置                       常山 為三

本國京都、寛永六年被召出                           大石 春伯

寛永五年被召出                                  惣村 下菴

本國宇和島、寛永五年被召出                          小波新九郎

本國宇和島、寛永年中被召出                          浅野長兵衛

本國京都、寛永十五年御小性被召出                      山本金太夫

本國京都、慶長十九年、於京都被召出 御入部御供、寛永年中三百石被下置

                                             稲井 仲菴

本國宇和島、寛永六年被召出                           三輪 清助

松平因幡守殿浪人、寛永八年被召出                      松宮吉兵衛 

本國宇和島、寛永九年被召出                          宮崎 左吉

本國宇和島、寛永十七年、須田隼人取次ヲ以被召出             三浦瀬兵衛

本國信濃、寛永六年被召出、二百石                      仁科仁右衛門

本國山城、寛永三年被召出、二百石被下                   渡邊助太夫

寛永七年被召出、三百石被下                          横山勝左衛門

本國美作、寛永七年被召出                            梶谷 林蔵

本國宇和島、寛永七年被召出 二百石被下置                檜垣助三郎

仙臺へ御所望ニて罷越、三百石被下                      浅野  洞 

本國土州、寛永十三年被召出                          松末杢兵衛

元和十年被召出、四百石被下置                         岡田新之允

寛永十八年被召出、二百石被下置                       上田 一角

元和年中、御徒行間被召出                       告森(こつもり)二九蔵 

(この人は旧西園寺配下河野氏に仕えた人、三間町には告森と言う地名が残っている。伊達家家臣になった後、辰野川改修工事に尽力しその功績から河原、あるいは川原と言う姓を授かったらしい。明治維新にいたるまで告森を名乗ることはなかったが、廃藩に伴って告森の姓に戻った。宇和島藩権参事告森周蔵の長男・良(はじめ)は鳥取県知事、千葉県知事を務めた。三男は谷口長雄と名乗り、現在の熊本大学医学部の創始者となった。) 

福島左衛門太夫浪人、寛永三年、中之間被召出             小木藤右衛門

寛永七年、中ノ間被召出                            宮崎九右衛門

本國紀州、寛永九年中ノ間被召出                      杉山孫兵衛

寛永十年、中ノ間被召出                            永井理左衛門

寛永十三年、御徒間被召出                          吉田作左衛門

本國仙臺、寛永十四年、中ノ間被召出                    武田仁右衛門

仙臺御譜大、寛永四年、中ノ間被召出                    小関利右衛門

寛永十五年、中ノ間被召出                           中川四郎兵衛

本國美作、寛永十四年、中之間被召出                    今橋 久蔵

稲葉淡路守浪人、寛永十六年、中ノ間被召出               村田彦之進

数代浪人、寛永十六年、中之間被召出                   法華津茂右衛門

本國會津 伊勢縁ニ寄 寛永十六年 中之間被召出           井上次郎兵衛

仙臺江御所望ニテ被相附                          東海林九之左衛門

寛永年中之間被召出                              小川又兵衛

寛永十四年 御小性被召出                          今泉加兵衛

寛永二十年 中之間被召出                          沼田 源六

 以下御歩行

寛永三年被召出                                 川口藤右衛門

寛永五年被召出                                 中村平太夫

寛永六年被召出                                 木村傳兵衛

寛永八年被召出                                 大澤嘉左衛門

寛永十四年被召出                                齊 小左衛門

寛永十四年被召出                                西田平右衛門

寛永五年 御算用方被召出                          吉田三郎兵衛

寛永十年 御算用方被召出                           岡 正右衛門

寛永十四年 御算用方被召出                         岩木勘之允

本國土佐 寛永十四年 御算用方被召出                  藤好市右衛門

本國伊勢 寛永十八年 御算用方被召出                  辻 理左衛門

本國宇和島 寛永十六年 御算用方被召出                 水地理左衛門

本國宇和島 寛永十六年 御算用方被召出                 北川 勘平

本國日向 寛永廿年 御算用方被召出                    山村五左衛門

松平因幡守殿浪人 寛永十八年 虎之間被召出              山本吉左衛門

本國加洲 寛永二十年被召出                         堀江平兵衛

寛永十二年被召出                                幕内左馬之允

富田信濃守浪人 御鷹匠被召出                        関 九郎兵衛

寛永六年 御鷹匠被召出                            川口金右衛門

寛永二年 御鷹匠被召出                            池田新兵衛

寛永十五年 仙臺ヘ御所望ニテ罷越ス                    安達 甚治

仙臺ニテ殿様部屋栖ヨリ被召出                        鈴木甚九郎

土州浪人 寛永十八年 御鷹匠被召出                    横川伊兵衛

寛永十九年 御鷹匠被召出                           関 新十郎

本國土佐 寛永年中御大所被召出                      森田與左衛門

寛永九年 御臺所方被召出                           青木久兵衛

寛永十一年 御茶道被召出                            休 加

寛永十年 御茶道被召出                             長 圓

以下 後七騎ト唱フル家柄

寛永二十年 仙台ヘ御譜代之侍御所望ニヨリ、仙臺より被相附。知行高二百石

                                           大内源左衛門

右同断                                       松本作右衛門

右同断                                       小島左馬之允

右同断                                       寺坂吉之助

右同断                                      上野彌治右衛門

右同断                                       原田左太夫

右同断                                       橋本甚左衛門

 同年四月廿五日 上使松平和泉守様ヲ以 御國元ヘ御暇被仰出

      白銀二百枚  御時服二十 御拝領

近代史文庫宇和島研究会の手によって翻刻された、この御歴代事記を初めとする宇和島伊達家の史料はきわめて貴重なものである。誤読もあるだろうとは思うが、膨大なデータを目の当たりにできるのもそのおかげだと感謝する。
 何よりも嬉しいのは、偶然見付けることが出来る昔の人の名前である。これらがデータベース化されていればその価値はさらに上がるであろう。

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