宇和島藩庁伊達家史料 記録書抜 伊達家御歴代事記

無印は記録書き抜きより抜粋
★印は御歴代事記より抜粋(重複記載あり)

「より」「並」は文字が無いために勝手に直してしまった。

天和年間

天和元年酉(十月改元)

三月十三日 椛崎鼻荒地之山江松うへさせ可申由。

三月廿七日 在々寺社並古城之書付仕候様申渡之。

四月十七日 御城下火事、太鼓ヲ打候処、今日よりどらニ相定。

五月   吉田ほけ津境騒動発生 委細略

五月七日 浅尾十郎兵衛被仰申出、去年大坂より召抱候哥うた

   い、暇とらせ可申由也。

 (芸人を抱える風習がこの時代にもあったのか。そう言えばまだ載せていないが、城下でも相撲取りが居たらしい。草相撲であろうが、時々相撲見物をした、との記述がある。)

七月二日 宮内之百姓五人、目安上ニ大洲可参由候ハゝ、留ニ罷

   越候由。四日、御巡検見上伊豫より御入込、八幡浜江御宿。

 五日、一、木喜村ニ而日土村中峠之百姓九左衛門、書付差上

   也。大津ニ而も上候得共、御取揚無之、又々上候。小田切喜

   兵衛様之御乗物前ニ而案外仕。脇指をぬき自害可仕由。家

   来衆めし取、伊方ニ而四郎五郎へ御渡付、早速僉儀相済、目

   安封まゝ、わき指ともニ御渡、彼者悪人ニ極、何茂の前ニて

   縄かけ、日土庄屋へ預也。


六日、大飛脚到来 (越後騒動の顛末記載、委細略)

八月十五日 殿様越後様之事ニ付御遠慮之処、去月廿八日首尾

   能御目見被仰上由申来、相触ル。
十月二日 宗門御改人数高、申年六万五千弐百八十七人、酉年

   六万五千九百三十二人。

十月十八日 年号天和と改元。

天和二壬戌

   三月十日 御徒青木八郎太夫、先年御買方相勤候節、切手ノ

   口ヲ切つぎ、虚言を書加、御銀掠取、及露顕切腹被仰付於正

   眼院。略 

十一日 祝森権吉盗致、詮義之処、妻子切殺候て走候故召捕、今

   日斬罪。

廿七日 御徒富田弥次郎兵衛不行跡、傍輩之付合無之、御扶持

   被召放

   御徒関谷五郎太夫不届之行跡、妻子へ対非堂之仕形流布、

   御追放被仰付。妻離別、子通路切候て、妻子ニ者御扶持被

   下旨被仰出妻子ヲ離別、不通之段申出ル。


五月十五日 八朔御使者、船山武左衛門被仰付。

八月 十七日 樫谷より熊打持、米壱俵被下之。

九月七日 稲井儀太夫召使之若党、小草履取を切、其身も自害、

   両人共相果ル由。

十月十二日、豊後橋修覆之義、御伺ニ不及義歟、御月番阿部豊

   後守様へ在所搦手口之橋板橋杭取替、行桁朽候分ハ仕替申

   渡、御伺可仕義に御座候哉、御使者を以被下置候処、前廉も

   御伺候哉被相尋付、十三年前修覆御伺不申、其前両橋際石

   垣仕直刻、相伺申上候処、御条目御見合被成、無相違可被

   仰付。尤石垣等繕も候ハヽ修覆可被仰付。

霜月五日 斉藤四郎兵衛宅出火、早速消火、下女付火。

七日 塩成与七郎家不如意、銀五枚下之。

十三日 斉藤四郎兵衛下女火付申付、玉かつきへはりつけ■、親

   族四人御城下追放。

    淡路長左衛門弥五兵衛、下灘女斬罪。


天和三葵亥

二月九日 斉藤四郎兵衛、小物成御勘定大分引追仕、欲ニ究、其

   身並悴孫三郎二歳男、切腹仰付、於会所申渡。後直ニ乗物

   ンヒ而太平寺け遣、切腹。二歳男子ハ差殺。御介錯田辺六之

   允仕之。妻娘ハ一門共ニ被下■代御扶持被召放。

何とも残酷な話である。いくら連帯責任の時代の厳しい処罰とはいえ、わずか二歳の子供まで処刑するとは。気分が落ち込んでしまった。これにはやりきれなかった。
子供を殺す時、我が子を思い浮かべて涙して殺したのだろうか、それとも職務だからと思って冷酷に処刑したのであろうか。記録の文章の隙間からは人間の感情が見えてこない。記録分は得てしてこんなものなのだろう。
この事件に限らず、犯罪を犯す人はばれないと思っているのだろうか。
判断を下す人の気分次第のこともあるのか、別な所では「本来死罪であるが、機嫌が良いから今回は所払いで済ませてやったぞ。」と言うような記述を見た。ダブルスタンダードはこの時代にもあった訳だ。

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