宇和島藩庁伊達家史料 記録書抜 伊達家御歴代事記

無印は記録書き抜きより抜粋
★印は御歴代事記より抜粋(重複記載あり)

寛文年間

寛文元年辛丑三月 元〆へ掟書、御黒印ヲ以被仰出。

一、 萬掟之本紙存老中支配之引付を其身取置、永代帳ニ書載

   置可申事。

一、 諸役人手前引付ニ、其身共表判、老中裏判、並諸拂手形

    ニ、其身共加判、老中裏判事。

一、 諸役人訴之儀有之者、先其身共内談を承聞届之品ニ有之

    ハ、老年へ可取次事。

右可相守此旨、尤其身共存慮之事於有之ハ、無縁慮老中へ申

出、品ニ寄り此方へも可申出、横目並可申付事。

 老中より被仰出儀ハ、諸事念入、無油断用事可相勤候也。

 寛文元年              元〆中

★同年九月 宮田十左衛門、有罪、切腹被仰付。

寛文二年壬寅二月 小塚清右衛門、御暇被下。

★同年九月 宇和郡八幡濱大火、同浦過半焼失致候。

★同年十月 麻布御中屋敷道巾ひろけ、裡御門両脇明地御拝領

ニ相成。

寛文三年葵卯

 正月元日より、長遠寺時の鐘、太鼓ニ相改る。

★同年、宇和久枝村之山王、御城内へ被為引、鎮守として、六月

廿九日、遷宮有之、代々御産神と被下成。別当神宮寺へ被仰付。

★同年七月廿八日、丸串城長門丸へ落雷す。

寛文四甲辰

二月 一、廿七日 御領分絵図被仕立候さま、源五兵衛へ申渡、

一、七日。古城之下築地作り、材木町四郎、当年より御年貢上申

度由、弐反五畝程有之よし。

三月、十万石御判物御預戴被遊、同年より兼而御済ニ付、丸串城

之御普請有之、奉行松根一郎左衛門、副奉行古谷九太夫被仰

付。

同年、御下向之節、播州九艘掛ニて、御供船龍貞丸覆り、浅野助

之允死ス。

同年、三七万石山境公事落着、相済。

同五年乙巳二月、御城下築地御普請。同月御天守しゃちほこ、

大坂鋳物師へ御注文。

★同年四月二日、豊後より金堀二人御召寄ニ相成、奈良村■

蓮寺山開堀候旨。

★同年五月廿七日、大超寺坊主、町人女房と奸通シ、両人とも

御成敗、獄門ニ相成。同月頃、御領内ニて鯨度々相取れる。

同六年丙午

七月三日、大風雨、田畑損所多有之。八月廿九日、汐八朔より高

く、龍光韻之田畑汐入と相成。鷹匠町前邊も同断。

同七年五月、巡検使。川口源兵衛殿・堀太郎右衛門殿、藤堂庄

兵衛殿

右、五月廿三日、緑村御泊り、其翌日、卯之町御泊り、海辺ハ高

林又兵衛殿・白井八郎左衛門殿、五月三日、三机へ御着船、内海

ハ十四日、日振へ御渡海、其夜豊後へ御渡海、今般御巡検使ニ

付、御入高百貫目余。

寛文八戊申

二月十二日 一、今一日より江戸大火事、大早飛脚ニ而申来。廿

日、一、今四日六日、江戸又々大火事之段、同断申来。

★三月 殿様為御参府御発駕被遊、同月五日、御見送之役舟、高

山沖にて覆リ、清水茂平兵衛。里見市左衛門家来一人溺死ス。

十月 廿九日、略 一、紙漉屋五郎左衛門所渡候下大野村より出

候人足自害仕。但松川善太夫所ニ居申時分下女江ちかつき身持

ニ相成、善太夫より尋可申由ニ而、呼ニ遣処、下大野村宿江参、

自害候よし。十二月 六日、一、松川善太夫下女、三日夜成敗仕

よし、七日、一、諏訪弥三左衛門妻子不届仕形ニ寄追放申渡。略

 一、隼人若党、道具持、昨日於宇和喧嘩仕、若党切殺立退候。

道具持、大工町ニ而召捕之。隼人被下、勝手次第成敗申付筈之

事。

寛文九巳酉

★三月二日、御参府、御発駕、三机まで御見送之向帰之節、高山

浦ニて船覆り、清水茂兵衛。里見市左衛門溺死ス。外家来一人、

同死ス。

★同年三月 須賀橋新規出来ス。

★同年同月、宇和久枝村山畑より掘出候鋒・唐金鋒八本、神宮寺

へ被渡候、山王社へ相納、掘出候百姓へ米一俵被下。

五月朔日、山内八左衛門女房切、其身も致自害候。

閏十月 九日、一、網懸鶉二聯献上之。

寛文十庚戊

二月、男河内村百姓、所之御蔵之米盗、同村ニ而今日かりつけニ

申付。

★五月廿一日、貞山様御法事ニ付、罪人御赦免被仰付。

★六月、佐藤甚五左衛門組八兵衛、妻を切殺し、其身切腹。

★七月十四日夜、小桁又次郎、町踊見物ニ参候処、宍戸主税家

来過分致候ニ付、致成敗、又次郎深手負、翌日死去候事。

★同年同月、勅使河原弥五右衛門組足軽小桁又次郎不届ニ付御

成敗、打首。女房・娘御構無之、男子追放被仰付。

(小桁又次郎は七月十四日の翌日死去となっている為に勅使河原弥五右衛門が打ち首になったのかと思っていたが、寛文十二年六月に『勅使河原弥五右衛門、依願御暇被下』と言う文言が見られるから打ち首になったのは小桁又十郎なのか。小桁又十郎が深手を負わせた相手が死んだと言うことなのか。)

★同年九月 法華寺、昔之寺号ヲ以、當御城下へ建立ニ相成。

★同年、紙漉五郎左衛門渡人足・下大野村之者自害ス。是ハ松川

善左衛門召遣下女ニ密通し、右女身持ニ成ニ付、善左衛門より右

人足け可相尋儀有之、呼ニ遣し候処、其村ニ於て自害致候

旨、依て善左衛門、下女成敗旨申出る。

★同年 在郷より売物代ニ受取、御城下へ持帰る米麦籠ニ入、荷

帰る分、無異議相通候様入口御番人へ申聞ル。

十二月 五日、来村田町江黒三羽おり候由。略 惣川、先日之

雪に家三十八軒潰、野井川ニ而十二三軒潰候よし。

寛文十一辛亥 

五月 一、二見浦三十郎妻、長介と密通、長介、去十日首縊相

果、三十郎妻長介死骸、近村ニ引廻し、二見往還之御原ニ張付申

付ル。


月 伊達兵部、原田甲斐等によるいわゆる「仙台伊達騒動:が発生この年はそれに関する記述が多い。動揺している様子が多々見られる。文中でも寛文十年の中に混じって伊達騒動のいきさつが書かれている箇所があるために、この辺りの記述には不確かなものがみられる。パス

寛文十二壬子

三月 十三日 略 一、岡五太夫行跡悪敷、龍光院江被下度願

出、申分聞届、一門中江被下候間、内分ニ而切腹可為致旨。 略

 廿二日、清家左七郎義、百人者清右衛門と喧嘩、不似合仕方ニ

付追放仰付、奉公一切御構、住居ハ京都大坂御一門之御国々御

構也。一、百人者清右衛門、右義付追放。廿五日、一、盗人斬罪

申付、首獄門掛之。

(百人者と言うのはどうも名前のようだ。初めは所属の名称かと思った、珍しい名前に良く出会う)

閏六月 三日 一、大洲御領分切支丹六百人余前々より隠置、訴

人在之、未埒明不申候よし。

七月十四日 長崎江ゑけれいす船着舟之風説在之由ニ而、長崎

江聞合。宇都宮善之進伊藤武太夫被遣。

廿一日、深浦七兵衛妻、長月村新五兵衛密会ニ付、はりつけ獄門

申付。吉見彦太夫遣。

八月四日、方々壱里塚、木を為植可申事。

九月十二日 南蛮舟令渡海候者、早々帰帆可申付、其節取斗心

得條条々公儀被仰出。一、日本人異国江不可遣、若於帰朝ハ死

罪可申付、耶蘇宗門御禁制等之儀同断。

霜月 九日、馬場之土手、来村並木之末薬師谷之土■山はな迄、

松為植候。奉行恩田又三郎申渡。

十二月、朔日、一、於宇和御持筒七左衛門二重ニ留、銀弐枚、

同伝九郎右手伝、米壱俵、右見付候百姓へ金壱切。

  寛文年間は「同年、同月」と言うような記載が多いために時間的な順序が間違って居るかも知れない。それにしても結構血なまぐさい事件が起こっている。時代が近づくに連れてさらに増えていく。

年表に戻る
SEO [PR] 母の日 カード比較 再就職支援 バレンタイン 冷え対策 誕生日プレゼント無料レンタルサーバー ライブチャット SEO