宇和島藩庁伊達家史料 記録書抜 伊達家御歴代事記

無印は記録書き抜きより抜粋
★印は御歴代事記より抜粋(重複記載あり)

「より」「並」は文字が無いために勝手に直してしまった。

貞享年間

貞享元甲子

六月十八日 今泉与惣右衛門、八朔御使者。
(鰯とか八朔とか献上の品が書かれている時といない時がある)

八月廿五日、佐藤庄右衛門不行跡、被仰付様有之処、志賀九郎

     衛願い¥ニ付、九郎兵衛へ被下、江戸へ申遣間、水野八

     郎左衛門へ御預申渡。

     三笠屋三郎兵衛、上を軽シ、御町拝借銀取込、商札楮元

     銀私欲致、品々不届有之候へとも、死後付、女房其外死

     罪之処、御悦義ニ付一命御助、女房孫家来、右三人町引

     渡追放、其外追放、家財闕所、笹屋九八郎後家娘、鑰屋

     吉郎左衛門娘追放之。姫路屋忠兵衛為相役不存段不届、

     家屋敷被召上、禁足、御領内之端ニ蟄居可仕由。

貞享二乙丑

正月七日 九嶋浦於小浜、鯨留候由

 十日 鯨、限在御虎之間御役人迄五十八人被下、組頭衆年頭組

     振廻未済分ハ拝味為於致候様。一、九嶋へ鯨年始ニ留      
     付、米三十俵被下。(九島で鯨が捕れていたのは驚き)

正月二十九日 酉上刻、北ニ赤雲出ル。但一筋。
  (気象現象の記述があるのは珍しい。この直後に地震があると地震雲とか言    われそうだが)
    
五月十七日 椛崎水主作内、妻刺殺候由、水主平之丞妻敵由申

     候段申出、作内籠舎、平之丞吟味申出趣有之、作内乱気     也。

八月四日、紺屋久右衛門姪割弥兵衛下女相果、吟味、公儀ヲ軽シ

     メ不埒之申分、久右衛門御城下追放、家屋敷召上、弥兵

     衛科代申付九月二日久左衛門免。

九月七日、 太鼓打油断及両度、御扶持召放。

極月四日 信田善五右衛門儀絶仕候付、旅勤法心之志ニ而寺へ

      参り、晩日罷帰、御暇願出処、親より義絶未申出、旁ニ

     足軽被差添、御国へ被下着、親権之進ニ先御預。

十日、午上刻地震、八ッ過又少、夜八地震。

廿六日、一、朝五地震、四前九前少ツヽ地震、廿七日七過少地

     震。

貞享三丙寅

  この頃吉田藩の山田忠左衛門騒動の記載が多くあるがそれについては省く。

正月卅日 来村ニ而黒御持筒茂左衛門打留。

三月廿七日、下相川村、野井川村、亡所付、小役小物成千石夫、

     前々之通丑年赦免。
    (この時代にも人が居なくなった村があったのか)

卅日 松木仲右衛門家来盗致、斬罪。

六月廿五日、鈴木源兵衛、八朔御使者出舟。


貞享四丁卯

三月朔日 深浦元御番人佐藤作内、十八年前相果、跡目不被下、

     飢ニ及候旨、種宗様晴宗様御判物四通出シ、三人分被

     下。

五月十二日、次郎丸村亡所付、小役小物成、三カ年赦免。

五月十五日 去ル三日に付、吉見彦太夫組足軽ノ子、十三四童、

     松浦六左衛門組之飼置候犬ニ少疵付、入寺申付。親ハ江

     戸留守之由廿七日免。この頃に「生類あわれみの令」が通達されていたらしいが実に理不尽なことだ)

七月十二日、商売の為、毎年来附候者ハ格別、是もいつよりいつ

      迄と日数吟味有之證拠を取り¥、其外之者、疑敷者、一

      宿も堅無用、一切下知無之ものハ令停止候段申渡。

九月 十七日 八日夜より九日昼迄お大風雨、流田七丁計、崩家

     百五十軒余、其外破損有之。

十一月十五日 船山仁兵衛草り取、不届きニ付手打二致候由。

十二月五日 肥後より御使者木田孫兵衛、与作並盗候舟被遣之。

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