宇和島に電話が開通


 現在でこそ、さびれてはいるが、宇和島市には、県下で初めての事業がいくつかある。上水道
開通は後の時代になるが、電話が開通したのも宇和島が県下で最初だということは、余り知ら
れていないようである、と書いたがどうやら間違いらしい引用した本に愛媛県で初めてと書いて
あったがいい加減なものであった。ただ、広島に広島逓信管理局が設置されたのは明治43年
4月1日(広島県史)で広島・島根・山口・愛媛が管轄下であったため、おそらくそれ以前に電話
が開通していたことを知らず、その逓信管理局の下で初めてだったために錯誤したのだろう。

  明治40年前後、当時町の助役であった桑山吉輝からこの話が提唱された。

話がそれるが、桑山は有名な「大津事件」当時の大津警察署長で、犯人の守山警察署から警
備の応援に派遣された巡査・津田三蔵の臨時の上司であった。

ちょっと余談
 津田は事件を起こす前に、桑山が宇和島出身であることを聞き、西南戦争で官軍として田原
坂で戦った自身の経験を語ったという。
 西南戦争の折り、窮地にたった西郷軍の中に、宇和島出身の吉田虎一なる勇敢な若者がい
た。田原坂では優勢に立っていた官軍であったが、乃木大尉の指揮する弾薬補給軍が木留山
にさしかかった時に、劣勢挽回を図るため、吉田虎一は単身篝火を持ち、その中に突入し弾薬
を爆破させ、一次は官軍をひるませたという。吉田虎一については此処では省く。

 津田自身も先祖は藤堂家の御典医であったことから、宇和島については少なからず関わりを
感じていたようで、敵味方に別れて戦いながらも、吉田虎一に対しては、その勇敢さに敬服して
いたようであった。

 桑山は「大津事件」の責任を取り、辞職して、郷里の宇和島に帰り鋸町の自宅で暮らしている
処を、声をかけられ、明治36年三代町長高槻常貞時代に助役になった。

 桑山の息子に桑山鉄男がいた。後には逓信次官、貴族院議員になるが、当時は逓信省文書
課長であった。鉄男は、犬養毅にかわいがられており、電話の話も出所はそのあたりかもしれ
ない。
 
 桑山から話を聞いた中原町長は「今なら松山に先駆けて電話をつけることが出来るかもしれ
ない」と考えた。改めて、長滝嘉三郎、居村繁治郎、中村惣八他7人の委員を選び準備にかか
った。途中から山村豊次郎もくわわった。

 先ず宇和島郵便局を通して、逓信省へ架設認可を申請しなければならない。条件として 「電
話口数は90個以上であること。架設負担金は一戸115円であること」 が示された。そこで委
員等が中心となり加入者の募集に取りかかったが、町民の反応は想像以上に冷たいものであ
った。
 「文明の利器であるから町民は飛びついてくる」、
と判断していたが、架設費用が高価なため申し込むものはわずかであった。当時の115円は
普通の家庭なら4ヶ月以上は生活出来たという。現在の100万円以上の価格であったのか。

 また「町の中に大きな電柱を立てられては、交通に支障をきたす」 
「本当に電話が便利なものならば、松山のほうが先につけている、だから便利なものではない
のだ」(愛媛県史では松山が先につけている、私の引用した資料を書いた人が間違っている)
 
「警察や郵便局なら必要かもしれないが、一般商人には邪魔である。電話で用が達せれば、客
足が絶える。また、電話で注文があれば、配達のために新たに丁稚を雇わなければいけない」
 
「役所が商売人の邪魔をするような事をして」

等々、様々な反対意見が続出した。
 そういう雰囲気のなかで委員は東奔西走して、どうにか63口の契約が成立したが、条件の9
0にはほど遠い。 そこで、山村は

「桑山君のおかげで、逓信省は架設をしてくれると言っている。なのに、90に達するのを待って
いて、機会を逃してはいけない。この際町当局が責任を持つ事にして架設工事を始めてもらっ
てはどうか。不足の口数は、工事竣工までに努力をしてそろえればいいと思う」

 と言い、その後中原町長名で正式に架設の申請をした。主管の広島逓信局も桑山文書課長
の関係で難なく通り、すぐに工事は始まった。

 工事は町役場のある広小路を起点として本町、恵美須町などが中心であった。丸穂村、八幡
村は当時はまだ合併していなかったので、狭い町内の工事は約一ヶ月で完了した。完了時に
はまだ予定の90口には達していなかったが、電話が通じ始めると、新しいもの好きの宇和島
町民は、すぐに飛びつき始めたようである。

 最初に取り付けた、各委員の家では、用事もないのにやたらと電話をしては、近所の人たち
に大いに宣伝をしたようである。
 しばらくすると、90口を満たし、逆に、電話番号にプレミヤがつくという状況になった。町役場
が「1番」、南予時事新聞社「44番」はプレミヤ外であったが、2〜10番は高価で取引されたよ
うである。

 また、新聞広告では「電話開通」等の表示が目立つようになったという。
 電話のあることが、当時の新しいステータスシンボルになったようである。
 この頃の電話は私有であったが、まもなくして国有となり、既設のものは政府に寄付する事に
なった。

 宇和島町民が県下にさきがけ、電話で話が出来るようになったのは、明治43年7月のことで
あった。宇和島に電灯の開通する2年前の事であった。

注・電話が開通したのは、電力が開通する前であるが、当時の電話の使用は蓄電池をエネル
ギーとして使うため一般の電力を不要とする。疑問を提示されたので】
【参考・津村寿夫著―宇和島の明治大正史―より】

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