宇和島の電気

 明治39年(1906)宇和島電灯会社設立が地元有志によって発起され、これが契機となって宇
和四郡に及ぶ設立計画のもと明治43年7月に宇和水力電気が設立された。

 資本金40万円、本社を宇和島市本町に置き、大正9年(1920)鶴島町西通りに移転。明治45
年までに野村発電所を皮切りに宇和島火力発電所(ともに40キロワット)が建設され、明治45年
5月1日、ランプにかわり宇和島に初めて文明の明かり、電灯が輝いた。
余談ながら、この宇和水電の社長には泉村岩谷の渡邊修がなったが、彼はその前に長崎郵便局長、
佐世保初代市長を務め、国会議員にもなり、新居浜の煙害問題にも取り組み、農民サイドにたっ
て公害問題の対策にも努めた。渡邊修は宇和島中学を出て、慶応大学中津校を出ている。宇和
島中学時代は毎日岩谷の自宅から、仙波峠を越えて徒歩で通学したという。
この時代宇和島から慶應義塾に行く人が多かったが、おそらく福沢諭吉の甥、中上川彦次郎がし
ばらく宇和島で教鞭をとっていた関係からではないかと思われる。

いずれ、渡邊修に関しては記載する予定。(現在、佐世保市の中島眞澄氏が研究調査中)

1ヶ月5燭光50銭、10燭光70銭であった。

 送電区はしだいに拡大され宇和四郡を目標に、各地に小水力発電所が建設された。この間南
宇和郡を供給区域とする南予水力、それに宇和島製氷、東宇和郡の鮎返電気などを合併し、南
予の電力事業を統一した。その後、高知県西部にも送電線を延ばして、幡多水力電気、津大水電
製材もあわせ、電力供給区域は四国西部を南北に貫いた。

 大正年代に入るとともに需要はますます増えたが、それに見合う供給電源に恵まれず大正14
年(1925)12月、伊予鉄道電気と対等合併した。

追補(津村寿夫氏書物を参考)

 それまで、地方では動力は石油発動機を使っていた。たびたび故障を起こしたり、その騒音には
耐え難いものがあった。家庭の照明は勿論ランプを使用していた。門灯には専門の業者がいて、
毎日はしごを持っては、得意先のランプを掃除して、石油をいれ、日暮れになると灯りを付けてま
わった。町のランプはまだ良い方で、山間部ではカンテラ、行灯を用いる家も多かった。

 我が国に初めて電灯が使われたのは明治11年で、電信開業祝賀会が東京虎ノ門工部大学校
で開かれた時、英国人教師エルトンに依ってアーク灯が灯された 。
次いで明治15年東京電燈会社が創立され、ここに実用化の第一歩を踏み出した。
 宇和水電の創立はそれから実に30年後になる。電力の開通に伴い、最初は様々な悲喜劇があ
った。

 そのころは、電気に認識のあるものは稀である。自ら取り付けを望ものは、知識階級の一部で
あった。宇和水電は社員を動員して勧誘のため、戸別訪問をした。先ず電気の説明から始め、経
済的効率を説明するために長時間を要し、一日20軒も回るものは極稀であった。事に困難を極
めたのは、村落の勧誘である。集団で申し込みがないと、電柱が立てられない。そのために村の
集会を開くが、ここで多くの反対意見が飛び出す。曰く

 「ランプという文明の利器があるのに、正体不明の電気燈などに手を出す必要がない」
 「電気が伝わると、人間は死ぬそうだが、そんな危険なものを持ってきて、万一の場合はどうす
るのか」
などという質問があいついだ。

 北宇和郡の某所では電柱の変圧器から小さい火が出て、消防は半鐘をならして「電気火事」と
云って騒いだ事がある。

 次第に電気が社会的に認識されると、今度は逆に宇和水電が悲鳴を上げ始めた。供給電力の
能力はまだ少ない。ところが最初取り付けに反対した集落から、頭を下げて申し込みに来るという
始末である。そのために東宇和郡鮎返電気、幡多水力電気その他を合併し、傘下におさめ、更に
群小発電所を増設して急場をしのいだ。
 

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