藩祖・伊達家由緒
(この項・南豫史より抜粋)

 
伊達氏は藤原鎌足の後で川邊左大臣魚名の男中務大輔鷲取の曽孫従三位中納言民部卿山
陰に出て、系図正しい家柄である。従四位上左京太夫摂津守中正、正三位参議安親、従四位
下越前守為盛、従四位上肥前大和伊賀の守を経て従四位下能登守定宗に至り常陸介に任じ
常陸國中村に舘し中村を以て姓とした。

その子孫が皇后宮少進季、孝従五位下大舎人助家周、侍賢問院非蔵人光隆を経て、朝宗は
文治年間源頼朝に随て奥州に戦ひ陸奥伊達郡を賜り更に伊達を名乗った。

一説には下野伊佐に住し伊佐と称したともいふ。
其の子宗村従四位常陸介から伊達郡の地頭となり後剃髪して念西と號した。其の子従四位下
蔵人太夫義廣栗野次郎と称し剃髪して覚仏と號し、従四位下蔵人太夫政依、宗綱、基宗、従
五位下宮内大輔行宗、従五位下弾正少弼(すけ)宗遠、其の子従五位下大膳太夫政宗は弓馬
の誉れあり、應永九年奥州宮方と称して赤舘に拠って足利の大軍と戦ったほどの武将であっ
たが、また歌人として都人を驚かした。
曾て山家の霧同じく雪とて有名な和歌がある。

  山あひの霧はさながら海に似てなみかと聞けば松風の音
  なかなかにつらゝら折りなるみちたてゝ雪にとなりのちかき山さと

従五位下兵部少輔氏政、大膳太夫持宗、従五位兵部少輔成宗、従五位下大膳太夫尚宗、従
五位下右京太夫植宗、従五位下左京太夫晴宗の嫡子輝宗は時の将軍足利義輝に愛され諱
の一字さへ賜った。

輝宗の室は羽州山形の城主最上修理太夫義家の娘で義光の妹に当たったが永禄十年八月
三日出羽國米澤の城に於て男の児を挙げた初は總次郎と名命け後梵天丸と改めた、天正五
年十一歳で元服して政宗となった先祖大膳太夫政宗の武功にあやかれと云うので特にその名
を襲はせたのであった、二年を経て同じき七年同國三春の田村大膳太夫清顕の女を娶る、田
村御前といふは此の人である。

田村と伊達は重縁の間柄で、田村家の先々代安藝守顕陸は政宗の祖父晴宗の妹婿であるか
ら田村御前は輝宗と従兄妹、政宗とは従々兄妹であった。
十二年十月十八歳で家督を継いで米澤の城に居り十四年左京太夫に任ぜられた。

処が國内諸々に一揆が起こって騒乱の結果輝宗は出羽國二本松の城主畠山右京亮義継の
為に殺害せられたが政宗は直ちに兵を引き具して二本松に攻め入り一戦の後義継を討ち取り
余勢を以て隣国の諸大名を討ち平らげた、芦名を亡ぼし結城を攻め取り、天正十六年遂に會
津四郡仙道七郡を略取し黒川の城に移って威勢を東北諸国に揮った。

独眼竜は子福者であった、先ず第一は伊達遠江守秀宗妾腹の出である。第二は女子で田村
御前の總領である越前少将上総介忠輝の簾中となった、第三が右近衛少将忠宗で二代将軍
秀忠の諱の一字を賜る、内室は池田三左衛門輝政の女であった。

第四は伊達河内守宗清でこれは後に黒川の城主となる、第五伊達摂津宗綱三の戸城主、第
六は伊達三河宗信岩崎の城主、第七は竹松丸とて早世、第八は田村家に養子して右京太夫
宗高と云ふ、第九は女子で石川民部少輔宗光の内室、第十は伊達治部少輔宗實でこれは亙
理の城主伊達安藝成實の養子となる。第十一は女子で伊達左衛門宗宣の室、第十二は伊達
兵部少輔宗勝一の関の城主、第十三は女子で京極丹後守高國の内室である。彼の騒動を惹
起したのは末子の宗勝であった。

十八年豊臣秀吉北条征伐の秋小田原に於いて謁見し慶長五年宮城郡に千代城を再興して仙
臺と改め、同年十一月會津征伐の戦功に依って一挙三十二万石を領し十三年正月には松平
の姓を賜った。
後には六十二万石の太守となりて威名は遠く羅馬までも響いた。
嫡子秀宗は天正十九年九月廿五日奥州柴田郡村田に呱々の声をあげた、母は飯塚右近宗
康の女吉岡局とて政宗の側妾である。幼名を兵五郎とよび文禄三年二月四日太閤の猶子とし
て聚楽邸に入ったが其の實は政宗の人質である。
慶長元年四月元服し秀吉の諱を賜って秀宗と名乗り従五位下侍従に任ぜられた。

秀宗十三歳の時随従仰せつけられた近侍の者次の通り。

 内崎越後(元和四年死去無嗣子)、富田肥前、粟野豊後(主膳親)
 古田喜右衛門、草苅縫之助(須田彦右衛門相続)、鯨岡雅楽之介、
 鯨岡主水(或主膳歟)、大石備前(一に備後)、加川助左衛門(嘉平親)
 二宮治右衛門、飯淵右馬之介(民部親)、鈴木源兵衛、
 黒澤與左衛門(作左工門親丹後事)、富澤(田歟)主計、
 山家清兵衛(内崎越後代り)、朽木大學。
 御近習衆 小関采女、(長門事)須田隼人、鈴木内記(九郎作父治兵衛兄)
 舞柳主馬、大内仁平治(権右衛門舅蔵人事)、甲斐織部、宍戸彌左衛門。
 別牒にある面々 神尾半治、高橋九郎右衛門、白石少三郎(刑部事與右衛門相続)
 飯淵長藏(民部事)、伊藤三之充(典膳事切腹)高瀬左平治(杢事)
 鈴木右京(治太夫事)、遠藤多左衛門、大内七九郎(覚右衛門事)、
 鈴木治兵衛、諏訪八十郎(主水事)、柳田新右衛門、安藤所左衛門(六郎右衛門事)
 安代彌作(主膳事)、佐藤左吉(吉兵衛事)、柿島茂兵衛、船山惣吉(権之助事)、
 志村権右衛門、星嘉平治(忠右衛門事)、櫻田山三郎、佐々木三郎(松下求馬事)、
 鈴木左京(中川清右衛門相続)、赤井平左衛門、

 秀宗幼より大阪に在て秀頼と共に成長した、或日のこと戯れに相撲し秀頼を組み伏せ上に
乗り懐紙を取出し足に敷いて踏みつけたので近習衆は何れも其の礼儀正しさに感じ合ったと
いふ。

 関ヶ原の合戦以来天下は徳川家康の掌中ににぎらるゝや秀宗は慶長七年二月本田佐渡守
正信に依て更に徳川に随身した。

 家康は政宗が此の間に在て苦節を全ふした事を喜で更に交誼を増進せむが為に同十五年
伊井兵部少輔直政の女を以て秀宗に娶し政宗の膝下に帰したが、政宗は憚って家は次男忠
宗に継せたが徳川秀忠深く慮り、一種の敬遠策を執って宇和島十万石に封じたのである。慶
長十九年十二月廿八日秀宗廿五歳の秋であった。
 二条城へは御礼使者として粟野盛國上洛し、明る元和元年正月神尾勘解由信勝、水沼民部
眞綱、尾川出雲重高、山家清兵衛公頼の四士、城地受け取りの為先発して宇和島に下った。


大正4年、久保盛丸氏によって書かれた「南豫史」は膨大な内容であるが、いわゆる候文では
ないがかなりそれに近い、漢字も旧字体が入り交じっている。なるべく原文に沿った形で書い
たが、ほとんど句読点がなく、読みにくいので、原文の意を壊さないつもりで、段落をつけてみ
た。


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