宇和島藩における享保十七年の大飢饉

津村寿夫著「宇和島藩経済史」より

 宇和島藩二百五十年の歴史を通じ、大悲惨を現出したのは享保十七年(の大飢饉であ
った。
この飢饉は山陽、九州、四国地方を中心としたもので 「徳川実記」 によると諸国の餓死
者十六万九千七百人、松山藩だけでも四千七百人を算したと言われている。
 彼の義農作兵衛が麦種を枕に餓死したというのもこの年の出来事である。
 これより先、宇和島領には毎年のように天災が続いた。享保十三年八月三日から降り始
めた雨は俄に暴風雨となり、城下、御荘、津島、河原淵、矢野、保内などの田畑被害面積
は六百二十四町歩、農作物の損害七千五百七十四石に達した。この天災は翌十四年から
十五、十六年と連続し、農民等は既に生色を失って路頭に迷う状態となった。

 藩庁では応急処置として被害地に米塩を送って延べ一万三千三百七十二人の露命をつ
なぎ、更に難民救済の土木事業を起こし、延べ十五万五千百七十二人に労賃を支給、と
にかく一時を凌がせた。
 然るにこの惨状の中に享保十七年を迎えて、またもや五回目の天災に襲われたのであ
る。
五月二十六日から閏五月十二日の十六日間に三回にわたる大暴風雨があり、領内を完
全に打ちのめした。七月十七日藩の発表したところによると、被害面積七百三十六町歩と
なっている。そこへ八月に至ると山陽、中国地方に発生した蝗(イナゴ)が四国、九州へ南
下し、猛烈な勢いで稲を食い始めた。口伝によると当時天空は蝗で煙のように黒くなったの
みでなく、土地には青いものが皆無になったと言われている。

 この様にして宇和島領内も次々に被害が甚大になるばかりであった。藩は八月二十六
日、幕府に対して次の如く状況を報告している。

◆ 私領分伊予国宇和島当秋作虫付き皆無の処二三分も御座有る可き哉、追って虫入り
相増候に就て収納の節に至り如何御座有る可き哉計り難き旨在所より申し越し候間先は
御届申上候。 以上

                 (北宇和郡誌)
更に、吉田藩のものに曰く

◆ 私領分伊予国吉田当春以来夏中雨降り続き麦不作に御座候、その上田作虫付き稲
悉く損失に及び候、当七月上旬漸く四五日快晴に及び殊の外暑さ強く、虫付いや増しに罷
り成り今以て作虫退き申さず、何れも稲作皆無の村浦数ヶ所之有り候、損毛の高は如何
程に御座有る可き哉、未だ相知れ申さず候、この通りに候へば皆無に御座有る可き趣に
御座候、委曲追々申し上ぐ可く候、右不作に付在浦の者は飢命に及び候体の者多く之れ
有る趣に御座候、右の旨御届申上候
      (北宇和郡誌)

これによると農民の中には折柄麦不作のため早くも飢餓に迫っている者が出たようであ
る。然も蝗の被害は両藩とも全領域に及び、実に惨憺たる光景を呈するようになっていた。
そこで宇和島藩は八月十七日付けをもって藩士一同に対し

◆ 郷中稲虫夥しく生じ田方莫大の損亡に付納む可き石数凡その積り訴へ出候処過分の
引方。御家中御養いにも行き渡り兼ね候 ー中略ー 家内人数多数の面々は飯料も不足
申す可き哉、何分取り続き候様致す可く候 
 (北宇和郡誌)
 
と予め非常時の覚悟を促した。顧みれば享保十四年以来天災の連続である。然も十七年
は豪雨に次いで蝗の来襲である。この年十月に判明した被害総高は

◆ 一、田方九万千五百十七石余、内九万百九十七石余虫付 (伊達家文書)

に達し宇和島領十万石に比すれば殆ど全滅に近い惨害であった。これがために藩は藩士
等に対し既定の俸禄が支払えないので、来年の秋まで一ヶ年間僅かに扶持のみの支給を
申し渡し、更に多くの難民には幕府から一万両を借り出して備うる処があった。当時藩主
村年は参勤交代のため江戸に在ったが深くこれらを心痛し、八月には早くも馬、鳥類など
少なくとも飼料を用するものを減少若しくは悉く放って穀物の節約を国元に命じてきた。

◆ 一、虫付大変に付御鷹、鵜、御飼鳥、御飼鳩残らず放ち、御鷹犬残らず放ち候様仰せ
出され候事、同断御馬も相減し五六疋に致し候様仰せ出され候事 (伊達家文書)

 而して九月になると各村の難民が飢餓に迫って群をなし右往左往するようになった。そこ
で藩は先ず火急を要する村々から救恤に乗り出した。
九月二十九日には山田組八ヶ村へ麦、塩など九百七十九人分を給与したのを初め、十月
七日には加茂、丹苗、真土、上松葉の各村に三百五十二人分、十月十二日には板戸、下
松葉村へ二百七人分、十月二十六日には多田組一千三百六十四人分、十月二十九日に
は郷内永長村へ七百五十四人分、その他災害地全村へ及ぼした。
 
郷土史家景浦稚桃氏の「伊予史の研究」によると

 「松山領内の餓死者累計四千七百人、牛馬の斃れしもの三千、路頭に食を乞う者列をな
す、よって藩は袖乞い禁止を命じたるも猶止まざりし」

 とある。
 宇和島藩の記録によると餓死者は一名も無かった事になっているがこの点はなお疑わし
い。しかし 「路頭に食を乞う者列をなす」 はまさしくその通りであった。彼らの姿は既に九
月から宇和島城下に見えていたが、藩では十月十三日に至り老中稲井甚太左衛門、町奉
行横山勝左衛門、目付樋口権太夫など三人の名を以て町頭その他の代表的人物を呼び
出し

◆「当年御領内蝗付き大変に付銀銭、銀札御借上げなされ度き旨」

を申し渡した。則ち義捐金の醵出を命じたのである。その金額は記録に残っていない。
十一月二十八日には前記の通り予ねて幕府に願っていた一万両借り入れの件が決裁とな
り藩の勘定奉行宇瀬藤平及び藩士三原勘助が罷り出、吹上御金蔵において現金を受け
取った。十二月十五日には

◆「今度御城米今治にて受取り、侍代官之無くては不都合に付当分中村杢兵衛仰付けら
れ…」


また十二月十九日には古谷三太夫、中村杢兵衛が今治に罷り越した。斯くして計画は
着々として進捗する。宇和島城下北町の立正寺で藩が粥の施行を始めたのはこれより先
十一月二十七日であった。然も二日間で七百名が殺到した。その後難民は益々増加する
ばかりだったので翌年正月中旬まで施行を継続した。当時の難民の数は明白ではない
が、吉田藩ですら二万四千六百人を算した位であるから、宇和島藩の数は更に多かったと
察せられるが翌年享保十八年の春幕府へ報告した一節には

◆ 去秋大蝗付き以来御家中御養い乏しく家内数多くの者共難儀、御心元なく思召され候
処末々に至る迄餓死訴へ出候者之無く此の節迄取り続き候段御満足にい恩召され候  
  (伊達家文書)


となっている。折柄幕府は正月七日被害地の諸大名に次の如き論告を与えた。

◆ 西国、四国、中国虫付損毛に付飢人之れ有る段上聞に達し此度の儀大切なる人の命
にかかり候故上にも色々恩召され候へ共大分の儀御心に叶わせられず候、然れ共拝借
金仰付られ損亡の国々御米積み廻され候、領主の了簡を以て飢人之無き様致さる可き事
に付、町人百姓に限らず相互に救い合い申すべき儀この旨公儀より仰せ出され候趣申し
来る         (伊達家文書)


 斯くして享保の大飢饉はどうにか終末を告げたが、しかしこれが藩の財政に甚大な打撃
を与えたことは言うまでもない。

 飢饉に際し救恤に莫大な経費を要したのみならず向こう一ヶ年は殆ど収入皆無となる。と
うてい藩の経済は保てない。この問題について藩はどのような対策をとったか、享保十八
年八月朔日家老桜田監物村年の命を受けて御浜屋敷に御目見以上の藩士を集め今後の
心構えを次の通り論した。

◆(前略) 然れども農人相減り 田地空き候分多く之れ有り第一修理甲斐なく取毛覚束な
く候段訴へ出候、右の趣に候へば御収納以後においても御家中恒年の通り御宛行下され
候儀為され間敷くその上当春仰せ付られる候御廻米代の内半納当分御才覚を以て差し出
され候へば秋以来是非御返済之れ有る事に候、相残る半分御収納米、大豆を以て二月中
御上納の筈に候へば御用多く候に付御家中半知位にも相渡され候儀昨今確と相定められ
難く候へ共何卒半知位は下され度恩召しに候、且つ又明年より五ヶ年の間御拝借上納之
れ有り、旁々以て御心外ながら四五ヶ年の間本高の通り御宛行下され候儀成され難く、難
儀ながら随分取続き相勤め候様兼々存ぜらる可く候、勿論上においても至って御不自由
に遊ばされ候恩召しに候へは御家中妻子、次には下部に至る迄右の趣を相弁へ尚また難
儀取続き相暮し候儀当時之を忠誠と為す可く候。右の趣仰せ出され候条各々その意を得
られ組支配人之れ有る面々は綿密に達し候様その意を得らる可く候    (伊達家文書)


この一節は当時の実情をよく記したもので、農村は 「農人相減り 田地空き候分多く」とい
う状態となった。然もこの難局に処して藩士等は高歩の減俸が断行された。村年は

◆「この際難儀に堪ゆるは主君に対する忠誠と思へ」と言っている。

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