長曽我部元親


長元物語 続き―2―

一、宇都宮殿家老、大津の城主菅田直之、土佐へ早々人質出し、元親公を後陣に頼、近の八
幡城・カヂヤの城、調略をもって討果す。直之知行して、その辺自分の働手柄なる儀あるに
付て、元親公別て御念比(ねんごろ)になされしなり。

一、右の大津城主城之助直之へ、河野殿人数八千にて取懸り申さるゝにより、大津の城へ加
番として、波川玄蕃と云ふ者《元親公妹むこなり》物頭にて、人数千二百指遣さる。依て河
野殿昼夜の境もなく責(攻)める。土佐より加勢の衆も一所に追出し、追込み、戦ふ時、大
門口にて執行加賀守・津野藤蔵と二人ふみとめ、こねつきの鑓を突く。この両人一番、二番
の争、口論相済まず。その後元親公御前にて対決になる。先ず加賀守申す様は、一番に鑓合
せたるは某、紛るべきにあらずと云ふ。扨藤蔵申すは、加賀守一番さもあるべし。某後には
目はもたず、拙者より先に一人も味方居らずと云ふ。その時元親公仰せには、藤蔵一備、加
賀一備、この時一所に大門へ込む時の事なれば、両人何れも一番鑓、争に及ばずと、即ち御
前にて御中(仲)直しの盃下されけるぞと承る。右の軍(いくさ)、河野殿一先づ引取ぬ。
後いつとなく土佐へ降参しけるとなり。

一、喜多郡魚成と云ふ侍、土佐へ人質を出し降参仕す事。

一、同郡曽根と云ふ侍、知行境の床崎(五十崎)と中(仲)悪きに付て、曽根土佐へ人質出
し、土佐衆陳(陣)立ありて床崎をほろぼし、この知行曽根に給はる。曽根別てありがたく
存じ、忠節諸人に越へし事。

一、長宗我部殿家老久武蔵佐(助)、武辺、調略、諸人に勝りかば、元親公仰せには、四
国大形(方)責(攻)付る所、豫州の内、宇和・喜多両郡未だ降参せず。内蔵之助伊豫一ヶ
国の惣組頭に仰付けらる間、某へ窺ひ申さず共、両郡弓矢はかどり候様にとの御意に付、
畏(かしこみ)奉る由にて調略才覚存じ立つ事。

一。宇和郡三間の郷に、土居・金山・岡本・深田・高森、この五ヶ所、敵城の間、一里、二
里又は半道なり。その中にて岡本の城忍び取る才覚、久武内蔵介(助)仕り、陳(陣)立し
て、
敵の存じもよらぬ大山、三日路続きたる谷峯を越え、その間に人馬の食物拵へ、煙のたゝぬ
様にとて、五日の用意して、兵粮馬の飼等、小者の腰に付けさせ、竹ノ内虎之助と云ふ武辺
功(巧)者、大将にて、一騎当千の侍廿人、小者も撰びて二十人、こ城へ忍びより、乗入ら
んとする所を、城中の者聞きつけ出相(合)、散々に切あひ、突あふ。虎之助むこ(婿)の
弥藤次深手を負ふ。その外手負ありといへども、本丸をば乗取る。二ノ丸を敵暫く持ちかゝ
へ鉄砲合戦。その音を聞き、久武が陳(陣)所半道ほど隔たる所より、敵の城深田・高森を
跡(後)になして、この両城の中なる道を、諸人一騎懸にかくる(駈)。この岡本の城は、
敵方の土居(清良)と云ふ人の知行くるめの城なれば、土居もこの火の手を上るを見て、岡
本の城にかけくる。土佐衆も、この城より十町計手前の坂にて、馬を乗り捨て々々、息をつ
かず岡本の城には(馳)せきたる所を、土居清義(良)土佐衆の来るを見て、鉄砲をふせて
待ちかけ放ちければ、久武内蔵介(助)・佐竹太郎兵衛・山内外記、三人の大将爰(ここ)
にて討死す。その雑兵共大勢討たれ、岡本の本丸も明のきけり。敵弥(いよいよ)勝にのり、
此辺暫く降参仕らざる事。

一、この岡本の城にて、竹内虎之助と弥籐次、その外一人も残らず討死の由、五日路隔てた
る土佐の竹内が宿所へ風聞ありける時、この弥籐次の女房、十三(ママ)になりけるが、書
置、父も夫も討死なれば、同前に果ると、守刀にてふゑかき切って失せにける。然る所虎之
助・弥籐次、豫州に於て養生し帰りけるが、女自害の由を聞き、弥籐次切腹せんとす。虎之
助申すは、その方儀はわが甥なり聟なり。外には名字の一類なし。その方死にたればとて、
わが娘帰る道にてもなし。又後世を助かると云ふ事もあるまじ。我等の家も絶し、君へも不
忠なり。是非思止まり候へ、と申すに付て、弥籐次理にふくし切腹を止る。虎之助則ち知行
遺跡を弥籐次に譲り、則ち弥籐次を竹内玄蕃と云ふ。虎之助は隠居領を取りて佐竹と云ひ、
城の番頭勤むる事。

一、喜多郡の内、北ノ川と云ふ侍、知行大身、城五ツ持て、先年土佐へ一味致し、元親公姪
聟に成さる所、又謀叛の由聞へあるに付て、久武後の内蔵佐(助)大将にて人数五千、又桑
名太郎左衛門大将にて人数三千、幡多郡大将の人数六千、都合一万四千打越し、北ノ川居城
三滝の城へ日中に責(攻)懸かる。元親公、今度は敵一人も残さず討果たす様にとの仰せ故、
大勢、無二無三に乗入る。本丸は乗取りけれども、二ノ丸強くして土佐の物頭、その外能き
侍分、数人討死なり。北ノ川殿自信の働残る所なく、本丸の庭にて、土佐の物頭依岡左京、
北ノ川殿と鑓にて突相(合)ける。北ノ川殿、如何に依岡、能き相手なり、尋常に、と詞を
掛玉ふ(給う)。依岡、仰の如く、と互に突相けるが、終に依岡、北ノ川殿を討取る。この
時味方に、くつきやう(屈強)の侍数人討死あり。北ノ川殿家老も数人討死の事。

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