宇和島中学に短艇部(ボート部)創立


 明治33年6月16日 

宇和島中学短艇部に「雪輪」「布引」の2艇が進水
松山、西条中学もこれに刺激され、短艇部を創立
明治34年9月22日 高浜沖において県下初の対抗試合が行われた。

出場選手 舵手  三好 重良   整調  鹿村 健男
      五番  三善  好    四番  岩村 竹男
      三番  高畑欣之助   二番  本田 正一
      舳手  井上  新

学期末の俄仕込みの選手、隅田川式の三十二回ピッチの浅い漕ぎ方、
西条中学は最初から問題はなかったが、大差を付けられて宇和島中学は松山中学に
惨敗した。帰りの汽車は呉越同舟、同じ車内で松山は「あなうれし、よろこばし」と散々
宇和島中学をあざ笑ったという。

この時に宇和島中学の選手は痛く無念を覚え、雪辱をちかった。

いまだに唱い継がれている「思へば過ぎし」は二番漕手本田正一氏がこの時の屈辱を
そそがんと、作詞したものである。曲は一高の寮歌「思へば過ぎし神の御代」をそのまま
採った。

レコードのない時代にも拘わらず、この歌は四国はもとより、阪神、中国、九州の学生
間に盛んに愛唱されるようになったという。

この高浜沖の敗戦が、翌年1月19日の宇和島中学のストライキの一つの要因にもなっ
たと言われているが、ここでは省く。

明けて明治35年10月21日、今回は宇和島沖で雪辱戦が行われた。その様子を津村
寿夫氏の文章から引用する。

−前略− その頃直ちに当面したのは、高浜沖の復讐戦たる第二回の対抗試合であ
る。これは宇和島中学にとっては予ねての宿願であった。愈々仲秋10月21日に宇和
島で挙行と決定した。松村校長も当然力瘤を入れている。選手も前回と異なって上級生
の中から広く選抜しているその顔ぶれは次の通りであった。

 舵手 長山吉次郎  整調 高畑欣之助
 五番 井上  新   四番 武田 敬綱
 三番 清家勝太郎  二番 本田 織江
 舳手 藤井 儀史

これ等選手は連日猛練習を続ける。殊に夏休みには川之石まで遠漕をして腕を練ると
いう有様である。宇和島中学四百の健児は選手たると否とを問わず何れも宿敵に対す
る報復の闘志のみが燃えている。やがて松山中学の選手一同は児島監督に引率され
て海路を宇和島へ乗り込んだ。これは試合の二日前で彼等も覇気満々たる様子に見え
た。

愈々10月21日、竜虎相摶つ決戦の日は遂に到来した。爽涼な秋晴れである。「対校」
という興味もわいて会場付近は宇和島中学の応援団や一般観衆で黒く埋まった。コース
は日振新田の馬越を起点として樺崎沖を着点とする直線千メートル、用艇は宇和島中
学は例の「雪輪」松山中学は「布引」である。

然も海は満潮である。やがて合図の音とともに白煙が上がる。その瞬間二つの艇首は
波を蹴立てて突進する。両軍の勢力はまさに伯仲、追いつ追われつ、抜きつ抜かれつ
の大接戦は肝を寒からしむる思いであった。

やがて800メートルを過ぎた頃、松山中学にやや乱れが見えてきた。その虚に乗じて宇
和島中学は力漕また力漕、遂に半艇身の差を以て凱歌を奏した。
陸上からは万雷のような拍手が起こった。遂に悲願の雪辱が此処に成ったのである。

その後松山出身の新体詩人東草水は敗戦に嘆く松山中学のために悲歌を作詞した。
全編十節、冒頭の二節には

 一、秋風そよぐ宇和島の
   海に夕陽の影落ちて
   月の桂の冠は
   仇の健児に奪われぬ
 二、戦に果てて礒に立ち
   敵よりあがるかちどきの
   声に九島もたそがれて
   波悲しげに寄せきたる

に始まって最後の十節には

 十、いざいざ漕がん冬の海
   いざいざ行かん夏の海
   あらあら勝たん香しく
   春は花咲く波の上

と激励している。

更に翌36年秋には恒例の対抗試合がまた高浜沖で挙行されたが宇和島中学はまた
二度目の優勝を遂げた。これを最後として爾来中絶して終わった。

大正14年8月2日 琵琶湖で宿願の全国優勝を遂げた

当時京大短艇部長の田島博士は宇和島中学の校友会誌「鬼ヶ城」五号に

「短艇部創設されてより二十余年、琵琶湖に出征する事三回、雄志成らんとして成ら
ず、悲壮なる「思へば過ぎし」の歌は年々心腹に滲み渡って来たが、今年という今年こ
そ、はじめて天下の覇権を握り、多年の宿志を果たす事が出来た」

と前提して祝辞を寄せた。


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